53.連絡先
胡桃が幸太郎を好きになるのに時間は掛からなかった。
初めて会った時から全く違和感がない男の子。初めてだと言う家庭教師の仕事も、とにかく一生懸命やってくれるのを全身で感じる。
(もう男なんて好きになるとは思わなかったのに……)
いつも真面目で一生懸命勉強を教えてくれる幸太郎。控えめで照れ屋で、冗談を言うと顔を赤くして驚く。
いつしか『咲乃さん』から『胡桃ちゃん』と呼ばれるようになり、彼がやって来る月曜と木曜日を指で数えて待つ日が続くようになった。
(私、まるでお母さんみたいだな)
母が父に惹かれたように、誠実で真面目な幸太郎に胡桃も惹かれて行く。
(だから……)
「だから、あなたに先輩は絶対に渡さない!!!」
胡桃は目の前で驚くような顔をする沙羅に向かって言い放った。沙羅が答える。
「あなた何か勘違いしてない?」
胡桃が聞き返す。
「勘違い?」
「そう。私はあいつなんて全く興味ないから」
「本気で言ってるの、それ?」
真剣な目で尋ねる胡桃に沙羅が答える。
「じょ、冗談でこんなことは言えないわ。本気よ」
胡桃が言う。
「じゃあ、先輩は私が貰う。あなたは絶対に邪魔しないで。約束できる?」
それを聞いた沙羅がやや焦って答える。
「そ、それは、だって、もしあいつが私のことを好きになったら……」
そう言いながら沙羅はこれまで感じたことのない不安感を覚える。
(なに? この気持ち。私、一体何言ってるの? 胸の奥が締め付けられるような、苦しくなるような変な感じ。何なの、これ。分からない……)
口籠る沙羅に胡桃が真剣な顔で言う。
「そんなことはありえない。絶対にない。だから本当に邪魔しないでね。これはお願い」
胡桃の脳裏に幸太郎が沙羅のことを『可愛い子』と言った言葉が甦る。幸太郎を自分一色で染めたい。それにはこの目の前の女が邪魔。心からのお願いだった。
沙羅はよく分からない自分の感情を無理やり抑えつつ、顔を上げて声を出す。
「私、私は……」
「おーい、着替え終わったのか?」
沙羅が何かを言い掛けた時、事務所から幸太郎の呼ぶ声が聞こえた。沙羅が答える。
「ま、まだよ!! でももうすぐ終わるわ」
そう言いながら急いでファミレスの制服に着替える沙羅。幸太郎が叫ぶ。
「胡桃ちゃん! もう説明終わったなら、ホール入ってくれる? 人が足らない」
幸太郎に呼ばれた胡桃がすぐに笑顔になって答える。
「はーい、先輩!! すぐに行きます!!!」
胡桃は沙羅をキッと睨んで言った。
「再来週の日曜日、私、先輩とデートに行くの!! ふたりでラブラブの。絶対に邪魔しないでよね!!」
胡桃はそう言い残し更衣室を出て行った。
「な、なんなの、あれ。私が一体何をしたって言うの……」
沙羅は少し悲しそうな顔をして制服に着替えた。
「はあ、疲れたわ……」
夕方、今日のバイトを終えた沙羅が事務所の椅子に座ってうな垂れる。
「お疲れ、沙羅、どうだった? バイト初日」
下を向いていた沙羅が顔を上げて幸太郎を睨んで言う。
「どうだったですって? ふざけないでよ!! どうした私は皿洗いばかりしなきゃいけないの? ホールに出してよ、ホールに!!」
沙羅の教育係の幸太郎は、バイト初日の彼女に一日皿洗いを命じた。幸太郎が言う。
「まあ、落ち着け。ハンディの使い方も、メニューすら覚えていないだろ? まず今日はここの雰囲気に慣れること。これからゆっくりと教えてやるよ」
「なによその苦しい言い訳。あなた私が初日から完璧に仕事をこなすことを恐れてこんな嫌がらせしたのでしょ!! ふん、男なのにみっともないわ!!」
さすがに幸太郎が怒って言う。
「それは違う。今のお前がお客さんの前に行ったら絶対恥をかく。いや、お前が辛い思いをする。物には順番がある。皿洗いだって重要な仕事だぞ」
そこへ同じくバイト終えた胡桃がやって来る。
「先輩の言う通りよ。あなたにはまだホールはできないわよ。ね、先輩」
疲れた体に胡桃の可愛い声が沁みる。沙羅は胡桃がホールで笑顔で接客していたのを思い出す。
「私だって、すぐにあれぐらい……」
そこへバイトチーフの斗真がやって来る。
「お疲れ~、沙羅ちゃんどうだった?」
沙羅が無表情で答える。
「つまらなかったわ。私もホールがやりたいの。次からそこで働くわ」
斗真が答える。
「ま、まあ、そうだな。幸太郎、次はホールの指導を頼むぞ」
「え、いいんですか?」
驚く幸太郎。全く未経験の人間に二日目でホールは少し早い。
「いいの、いいの。沙羅ちゃんならできる!」
それを聞いた胡桃がむっとした表情になる。
(わ、私なんてホールやるのに何日皿洗いやったと思ってるのよ!!)
そんな視線に気付かない斗真が沙羅に言う。
「ねえ、沙羅ちゃん。次はいつバイト来れるの?」
少し考えて沙羅が答える。
「まだ分からないわ。決まったら連絡する」
「じゃあ、俺と連絡先交換しようよ」
斗真がそう言ってスマホを取り出す。
幸太郎はそれをじっと見つめた。『バイ友』をやっている自分ですらまだ知らない沙羅の個人的な連絡先。彼女は教えるのだろうか、幸太郎が息を飲んで見守る。
「馬鹿じゃないの」
「え?」
あまりにも予想外の言葉に斗真が驚く。
「どうして私があなたに個人的な連絡先を教えなきゃならないの?」
「いや、だって、それは……」
斗真は驚きのあまりに動揺し始める。沙羅が続けて言う。
「そんな簡単に女の子の連絡先を教えると思って? 馬鹿にしないでよ」
「いや、そう言う意味じゃ……」
雪平家令嬢。
店長にも粗相がないようしっかりと言われた斗真が口籠る。
「じゃあ、こうしましょう」
沙羅が自分のスマホを取り出して幸太郎に言う。
「あなた、スマホちょっと貸して」
「え? ああ、いいけど……」
沙羅は幸太郎のスマホを受け取ると、自分のスマホを近づけ連絡先の交換をする。
「え? お、お前、何やってるんだよ!?」
驚く幸太郎。沙羅が言う。
「私の出勤日はこの『教育係』さんから連絡させるわ」
「お、おい、そんな勝手を……」
そう言いながら幸太郎は動揺していた。
以前自分の連絡先を部屋に置いて、ティッシュでつままれて捨てられたことを思い出す。
「ちょ、ちょっと、そんな勝手なこと!! 斗真さん、いいんですか!?」
それを聞いていた胡桃が不満そうに言う。
「ああ、まあいいよ……」
雪平家ブランド、そして妙な下心がある斗真はすべて沙羅の言いなりである。斗真が沙羅に言う。
「ねえ、沙羅ちゃん。それよりさ、この後ヒマ?」
沙羅が斗真の顔を見る。
「良かったらさあ、一緒にご飯でも行かない?」
沙羅が首を横に振りながら答える。
「あなた確かバイトチーフでしたっけ? それなのに本当に馬鹿ね」
「え?」
驚く斗真。
「女だったら誰にでもそうやって声を掛けてるの? チーフと言う立場を利用して?」
「い、いや、そんなことは……」
図星の斗真が動揺する。同時に沙羅を怒らせてしまったことに焦り始める。
「沙羅っ!!」
幸太郎が大きな声で言った。
静まる一同。幸太郎が続けて言う。
「お前な、あまりにもチーフ、年上の人に対して失礼だぞ。憶測で物を言うな!!」
怒鳴られた沙羅が幸太郎を見つめる。
「わ、私……」
沙羅が下を向いて言う。
「……ごめんなさい」
(え?)
意外な言葉に今度は幸太郎が驚く。てっきり言い返されると思っていた。沙羅が立ち上がって言う。
「私、今日は帰るわ。疲れたの。じゃあ」
沙羅はそう皆に言うとひとり事務所を出て行った。
「沙羅……」
沙羅が出て行き静かになる事務所。斗真が幸太郎の横に来て言う。
「沙羅ちゃんの教育係お前で正解だよ。あれは手に負えんわ。お前ら一体どういう関係なんだ?」
既に斗真の頭の中では『沙羅を口説く』と言う選択肢は消えていた。あまりにも自分勝手で常識が通じない沙羅にお手上げである。
「ただの、友達です……」
嘘ではない。認められたばかりだが。
「ただの友達な訳ないだろ。お前の言葉だけは素直に聞いたぞ、彼女」
(え?)
言われて気付くその事実。
幸太郎は沙羅が出て行った事務所のドアを暫く見つめた。
(私、私、一体どうしちゃったの? あいつに連絡先渡すなんて……)
沙羅は送迎の車の中で、ひとり幸太郎に渡したスマホのSNSを見つめた。
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