4.お風呂上がりの胡桃ちゃん
「こんにちは、胡桃ちゃん。……え?」
毎週月曜と木曜の週二日、幸太郎は咲乃胡桃の家庭教師をしている。
正直、胡桃の部屋は苦手だった。全体がピンク色でまとめられており、置かれているものすべてが『可愛い』が条件になっている。愛し合う恋人同士なら『可愛いらしい彼女の部屋』として楽しむ余裕も生まれようが、幸太郎はあくまでお客であり先生である。
そして今日は更に居辛くなる要素が加わっていた。
「胡桃ちゃん、お風呂入ったの……?」
幸太郎を迎えてくれた胡桃は一見してそれとわかる格好であった。
服は薄いピンク色のパジャマのようなものを着ており、頭にはまだ髪が濡れているのかヘアドライタオルが巻かれている。頬を赤く染めた胡桃が少し恥ずかしそうに可愛い声で言う。
「ごめんなさい、先生。さっきお料理していてちょっとこぼしちゃって……」
母と料理をしていたが料理をこぼしてしまい、慌ててシャワーを浴びたそうだ。先程迎えてくれた胡桃の母が何やら忙しそうにしていた事の意味が分かった。幸太郎が言う。
「ちゃんと髪乾かして、服も着替えて来てからでもいいよ。俺、外出てるし……」
胡桃が首を振って言う。
「いいんです、先生。先生時間ないでしょ? 遅くまで勉強やバイトしてるって言ってたし。私ならこれで構いませんよ!!」
(いや、俺が構うんだが……)
ただでさえ女の子度数が高い胡桃の部屋。
その部屋の中にシャワーを浴びたばかりの女子高生が目の前にいる。教える時にはどうしても隣に座り、顔や体も接近する。
「ねえ、先生」
勉強を始めた胡桃が、可愛い声で隣に座る幸太郎を見つめて言う。いつもと同じ光景。でも今日は特別色っぽい。
「なに?」
冷静を装って幸太郎が返す。
「そう言えばこの間紹介した『バイ友』はどうでしたか?」
「ああ……」
幸太郎は意外にも合格通知が来ていたことを思い出す。
「うん、なんか合格したみたい。もし続けられれば凄く助かるよ。ありがとう、胡桃ちゃん」
「いえ、いいんですけど」
「ちなみに誰から教えて貰ったの?」
「同級生。彼も『バイ友』やっていたみたいで。詳しいことは教えられないそうなんだけど」
「そうなんだ」
それはちょっと意外であった。『彼』と言うことはその子も男なのだろう。胡桃が言う。
「で、その友達になるって子、どんな子だったんですか?」
それを聞いた幸太郎の頭に、冷たい雪のように無表情で何もしゃべらない沙羅の顔が思い浮かぶ。
「うーん、あまりリアクションのない子だったかな……」
「可愛かったんですか?」
そう言う胡桃の目が真剣になったことに幸太郎は気付かない。
「可愛い? うーん、そうだな。可愛いと言えば可愛いのかな」
「……そう」
少し鈍感な幸太郎は彼女の顔が少しぷくっと膨れた事にやはり気付かない。幸太郎が言う。
「さあ、勉強始めるぞ」
「……面白くない」
「ん? まあ、勉強は面白くないかもしれないけど、面白くなるように頑張ろう」
「え? あ、まあ、そうですね……」
胡桃はちょっと掴みどころのないいつもの幸太郎を見て、ため息をつきながら苦笑した。胡桃は椅子に座り直し、少しだけ幸太郎に近付いて髪を触る。
(うっ、シャンプーの匂いか? 良く分からんけど、いい香りだ……)
いつも胡桃からは女の子特有のいい香りがする。
今日はそれに加えてシャワーを浴びたての香りが混ざる。正直その香りだけで頭が混乱しそうなくらい香しい。
幸太郎も健全な男子高校生。
『視覚』はシャワーを浴びたての色っぽい姿。
『聴覚』は胡桃特有の可愛らしい声。
『嗅覚』は彼女の匂いにシャンプーの香りが加わり、これで胡桃に触れようものなら『触覚』まで魅了され堕ちるのも時間の問題だろう。
「先生、大丈夫ですか? なんか手、震えてるけど」
そう言って胡桃は机の上に置かれた幸太郎の手を握る。
(ぎゃ!! ふ、触られた!? 触覚、撃沈っ!! 緊急事態っ!!!!)
幸太郎は最後の砦を陥落させられたことで緊急事態に陥る。そしてすぐに難しい話を始める。
「じゃ、じゃあ今日は二次関数を勉強しようか。二次関数とグラフ、最大値最小値、二次方程式、二次不等式への応用などを……」
「先生」
「え、なに?」
胡桃は頭に巻いたタオルをちょっといじりながら頬を赤くして言う。
「今日は保健体育を教えてくれませんか?」
「は? 保健体育……?」
そんな科目は受験勉強にはない。真面目な幸太郎が必死に考えていると、胡桃は少し照れながら言った。
「分からないことが多くて。特に男の人の体のこととか、ね?」
さすがに鈍い幸太郎でもその意味を理解する。
「だ、だめ!! そう言うのはダメ!! そもそも俺もよく知らないし!!」
顔を赤くして必死になる幸太郎を見て胡桃が言う。
「じゃあ、お互いに勉強しませんか?」
そう言って意味ありげににっこりと笑う胡桃。
幸太郎はなぜかいつもと明らかに違う胡桃を前に、必死に数学の公式を呪文のように唱え続けた。
平日の夕方、学校が終わった後は毎日バイトをしている幸太郎。
これまで火、水、木の週三回ファミレスに入っていたが、今週から金曜日が入れなくなる。沙羅との『バイ友』に行くからだ。
翌日、ファミレスに行った幸太郎はバイトチーフである八神斗真にその旨を伝えた。長身の爽やかイケメン。サラサラの髪に手を当てて斗真が困った顔をする。
「えー、幸太郎、金曜入れなくなるの?」
「はい、すみません」
斗真が腕組みをして考え込む。そこへ幸太郎が憧れている藤宮はるかがやって来て言った。
「仕方ないでしょ、斗真さん。幸太郎君は光陽高に通う秀才君ですよ。こんなファミレスのバイトより家庭教師の方がずっと稼げるわけだし」
黒く長い髪を綺麗にアップでまとめたはるか。幸太郎はいつもその大人びた彼女に見惚れる。斗真が答える。
「分かってるけどなあ、幸太郎が来られなくなると結構きつい」
慢性的な人手不足のファミレス。シフトのやりくりをしている斗真が困るのも無理はない。はるかがそんな彼の腕を掴んで言った。
「私、頑張るから。斗真さん、私もっとバイト入るから、一緒に頑張りましょう!」
はるかが満面の笑みを斗真に向けて言う。斗真は頭を掻きながら答える。
「ま、仕方ないか。頼むぞ、はるか」
「はい!」
入った時からずっと感じていたはるかと斗真の関係。
モテる斗真の気持ちは知らないが、はるかは少なからず斗真に対して好意を抱いている。自分は高校生、釣り合うはずはないことは理解している。ただ、
(またちょっと、ふたりが仲良くなっちゃうんだな……)
傍から見てもお似合いのふたり。
自分の気持ちなど全く気付いていないであろう笑顔のはるかを見て、幸太郎は少し胸を痛めた。
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