第69話 語尾にハートがついちゃっているじゃない ◆――キンセンカ(リリアン)
コツコツと、ヒールブーツのかかとが王宮の磨き抜かれた床を打つ。
広くて長い廊下には、わたくし以外誰もいない。説明してくれる女官は……確かこの先の部屋だったわよね?
思い出しながら、わたくしが角を曲がろうとしたその時だった。
視界の端に小さな黒猫が映ったかと思った次の瞬間、間髪入れずに巨大な獅子がとびかかって来たのだ。
「きゃあっ!」
咄嗟のことで反応が遅れ、わたくしはダン! と容赦なく床に背中を打ち付けた。さらにそこへ、強くて重い衝撃とともに、巨大な黒い前脚がわたくしの胸に振り下ろされる。一瞬息が止まり、わたくしは叫びをあげることすらできなかった。
「あんた、一体何しに来たわけ!?」
グルルァァア! という咆哮とともに聞こえたのは、まちがいない。上位魔物であるアネモネの声だ。
わたくしは目を開けて、自分にのしかかっている黒い獅子を見た。
人間の頭など一瞬でかみ砕けそうな巨大な顎と牙。金の瞳は鋭い光を放ってわたくしをにらんでおり、巨大な前脚から出た太い爪はわたくしの体に食い込んで、正直かなり痛い。
痛みにうめいていると、またもや咆哮が聞こえた。
「あたいの仕事を奪うのなら、あんたとて容赦しないわよ!」
まったく……何かと思ったら、アネモネじゃない。
自分の使命も忘れて聖女とよろしくやっているのは聞いていたけれど、ここまでだなんて。これだから子猫ちゃんはだめなのよ。
わたくしはふっと鼻で笑った。
「あら? アネモネじゃない。全然音沙汰がないから、てっきり人間どもにやられたのかと思っていたけれど、案外元気そうね?」
煽るように言えば、アネモネがギッ! と太い牙を覗かせた。
「あたいがやられるわけないでしょ!? ひ弱なあんたとは違うのよ。あとあたいはアネモネじゃなくて、ショコラよ!」
言って、また前脚に力が籠められる。とたんに胸にかかった重い圧力に、ゲホッと咳が漏れた。
くっ……。アネモネめ、獅子の姿をしているだけあって、力ではとてもかなわないのよね。しかも上位魔族だしメスだから、サキュバスの魅了魔法も効かない。腹が立つけれど、ここは挑発せずに穏便に話し合いといこうじゃないの。
「わかったわよ、アネモネ――じゃなくてショコラ。でも、そもそもあなたが主様に連絡をしないのが悪いのよ? 先ほど見たけれど、聖女アイだってぴんぴんしているわよね?」
私の指摘に、ショコラがうぐっと言葉に詰まる。
「そ、それはタイミングを見ているだけよ! 聖女のまわりってねえ、あんたが思っているよりずっと、守りが堅固なんだから!」
そう? 逆にわたくしは、思っていたよりずっと手薄だと感じたけれど?
現にこうしてショコラだって侵入して居座っている上に、わたくしだってやすやすと中に入れたんだもの。それも護衛騎士という、聖女アイや王妃エデリーンに一番近い位置に。
――聖女の力がどれほどかはわからないけれど、この国の者たちは過信しすぎではなくて?
そう思ったけれど、わたくしは口には出さなかった。だってそんなことを言ってショコラを煽ってもしょうがないんだもの。
あの巨大な猫パンチは、わたくしの頭ぐらい簡単に吹っ飛ばす威力を持っている。魔族は人間より丈夫にできているとはいえ、さすがのわたくしも頭と胴体が離れたら生きていけないわ。
煽る代わりに、わたくしはなだめるような優しい声音で言った。
「そうね。だからわたくしが送り込まれてきたのよ。といってもわたくしは、あなたも知っての通りひ弱でしょう? だからあなたの補佐役兼連絡役だと思ってくれればいいわ」
「ふぅん……補佐役」
「わたくしがあなたの仕事を奪うわけないじゃない。ううん、奪えるわけないわ。わたくしよりあなたの方が強いって、みんな知っているじゃない」
「ならいいけど……」
控えめな返事とともに、胸にかかっていた圧が弱くなる。わたくしは内心笑った。
ふふっ。これだから子猫ちゃんはちょろいのよ。ちょーっとおだててあげればすぐに手を離しちゃうなんて、本当にお子さまなんだから。
「とにかく! くれぐれもちび聖女はあたいの獲物だってこと、忘れないでよね! 変なことをしたら、あんたでも許さない。あたいの爪でズタズタになりたくなかったら、大人しくしているのよ!」
目の前でガゥッ! と吠えられて、わたくしはわざとらしく大きくうなずいてみせた。
「安心してちょうだい。聖女に手出ししたりなんかしないわ。わたくしはあくまであなたの補佐だし、非力な私じゃ聖女を殺せないことぐらい、わかるでしょう?」
……そう。心配しなくても、わたくしは聖女アイには何もしないわ。
だってわたくしの狙いは、聖女アイの保護者である国王夫妻だもの。
私がわざわざ聖女に手をかけなくったって、両親の仲がズタズタになれば聖女もただではいられない。絶望を突き付けられ、力を失えば、聖女の力も失われる。
そう考えると人間って本当、強い力を持つ割にはもろいわよね。前の聖女だってあんなに強い力を持っていたのに、夫である国王の愛を失った瞬間、見る間に力を失ってしまったんだもの。
わたくしが媚びるように見上げれば、ショコラは「それもそうね……」と目を細めた。
まったく。わかったのなら、さっさとその重い前脚をどかしてくれないかしら?
なんて考えていると、廊下の遠くから高い声が聞こえてきた。あの声は……聖女アイね。
「しょこらー? どこにいるのー?」
「にゃおぉ~ん」
その瞬間、ショコラの耳がぴくりと動いたかと思うと、ぽんっ! とはじけるような音がして、獅子の姿が消えた。
かわりにシュタッと現れたのは、まるまるころころした黒猫。――ショコラの仮の姿だ。
「にゃお~ん、にゃお~ん」
その甘ったるい声を聞いて、わたくしは思わず眉をひそめた。
ちょっと、やだ! 何よその鳴き声! 完全に語尾にハートがついちゃっているじゃない!
だというのにショコラはわたくしの存在など忘れたかのように恥ずかしげもなく鳴いたかと思うと、たっかたかと声が聞こえてきた方に走っていく。その後ろ姿に、わたくしははぁとため息をついた。
全く、だらしないわね……。揶揄するまでもなく、あんなのどこからどう見てもただの可愛い子猫ちゃんじゃない。
私はルンルンではしりさっていくショコラの後姿を見ながら、パンパンと服についたほこりを落とす。それから気を取り直して、指定された部屋へと向かった。
\ちょろいと言われてしまったショコラはこれでも上位魔物/






