第149話 まさかこれが、出産まで続くなんてこと、ないわよね……?
「ニャッ!!!」
「きゃあっ!?」
ビュンッ!!! と魔弾のごとく、黒い塊がハロルドやリリアンよりも先に部屋に飛び込んできたのよ。
ドアを開けたラナが、どすんとその場に尻もちをつく。
「あっ! こらショコラ!」
黒い塊――もといショコラに向かって、アンとイブがあわてて駆け寄っていく。
「申し訳ありませんエデリーン様! 今すぐ追い出しますので!」
……そういえばここ最近はつわりにいっぱいいっぱいで気づいていなかったのだけれど、ショコラが部屋にいなかったわね?
もしかしてアンたちが気遣って、猫であるショコラを入れないようにしていたのかしら。
「待てっ! 待ちなさいったら!」
ビュンビュンとすさまじい速さで部屋の中を走り回るショコラを、アンたちが必死に追いかけている。
ふふっ、この光景、まるでショコラが初めてお風呂に入れられた時のようね。
やがてショコラを部屋の角に追い詰めたラナが、じりじりとショコラに近づいて行く。
「そうそうそのままこっちに……」
「ニャアアアンッ!!!」
「キャーッ!!!」
けれどあと少しというところで、逆にショコラに飛びかかられてどすんと尻もちをついていた。
「みんな、大丈夫よ。ショコラがそばにいても平気だと思うの」
そう声をかけたものの、三人はハァハァと息を切らし、ショコラを追いかけるのに必死で聞こえていなさそうだ。
みんな、どうしてそんなにショコラを私に近づけたがらないのかしら? ……まさか魔物だとバレているわけじゃないわよね?
そこに、ユーリ様の落ち着いた声が響いた。
「ショコラ」
かと思うとどうやったのか、ユーリ様がひょいっとショコラを抱え上げている。
「ニャアン!?」
突然の動きにショコラもびっくりしているようで、クワッ! と目を見開いてユーリ様を見ている。
……あのショコラをこんなにいともたやすく捕まえてしまうなんて、ユーリ様ったら恐るべし身体能力の高さね……!
それから私のそばに、ひょいとショコラをおろす。
「ショコラ、ここでいい子にしていなさい」
ぽんぽん、と大きな手がショコラの頭を叩く。
「……なお~ん」
そんなユーリ様をショコラはじとっとした目で睨んでいたが、異論はないらしい。
アンがためらいがちにユーリ様に申し出る。
「で、でも陛下! 猫はあんまり近づけない方がいいとお医者様が……!」
なるほど。お医者様がそんなことを言っていたのね。でもショコラはただの猫じゃなくて魔物だから大丈夫……いえむしろ普通は魔物の方がまずいのかしら……!?
考えていると、ユーリ様がふっと笑った。
「大丈夫だ。ショコラは賢いから、エデリーンを害するようなことはしない。そうだろう? ショコラ」
「にゃおーん!」
ユーリ様の言葉に、「そうよ! その通りよ!」とでも言うように、ショコラが誇らしげに鳴いている。
……魔物だから、やっぱり人間の言葉わかっているのよね? はっきりと言葉にしたことはないけれど、なんとなくユーリ様も気づいている気がするわ……。
「しょこらぁ」
そんなショコラにアイがぎゅっと抱き着いた。お返しと言わんばかりに、ショコラがアイのふくふくほっぺをざらざらの舌で舐め始める。
「ふふふっ! いたいよう」
「おいおい、もう入っても大丈夫かぁ?」
そこに、怪訝な顔でハロルドがひょいと顔をのぞかせた。その後ろにはもちろんリリアンもいる。
どうやら二人とも、ショコラのドタバタを見て部屋に入るのを遠慮していたらしい。
「ああ、大丈夫だ」
私の代わりにユーリ様が答えた。
「じゃあなんかひと段落したところで、お邪魔しまーす……」
言いながら、珍しくどこか遠慮した顔でハロルドが入ってきた。
「……えーっと、お体の調子はいかがですか。その……」
……先ほども思ったけれど、いつもふてぶてしいハロルドにしてはずいぶん大人しいわね?
いぶかしんでいると、そわそわしているハロルドのわき腹をリリアンがドスッ! とどつく。
「ぐふっ」
「もっとしゃんとしたらどうなのよ。うじうじして気持ち悪いわよ」
「おまっ、お前なあ……! こっちだって色々気を遣ってこうやって……!」
と、彼らなりに小声でぼそぼそやりとりしている。どうやらハロルドは、妊婦である私に気を使ってくれていたみたい。
私は笑ってしまった。
「私がつわり中の妊婦だからって、そんなにかしこまらなくていいのよ。いつも通りのハロルドの方が元気がでるわ」
「そ、そうだけどよぉ……。妊婦ってのはどーも……未知の生き物すぎて……」
言いながら、やっぱり腰が引けている。
「病人ならともかく、妊婦に何を作っていいのやら……。そんなにやつれちまって……」
「確かにすごく痩せてしまったわね……」
自分でも鏡を見なくてもわかるほどやつれた自覚があった。服の上から触ってもあばら骨がくっきりわかるほどなんだもの。ろくに食事をとれず、吐いてばかりなのだから当然だ。むしろよく生きているなと思う。
「もう、情けないわね!」
そこにまたリリアンがドスッ! とハロルドをどつく。
「『妊婦にどう接したらいいかわからないからついてきてほしい』とか言ってわたくしをここまで引っ張って来たんだから、もっとしっかりしなさいよ!」
「それはそうだけど……」
「第一、相手が病人でも妊婦でも、あんたの仕事はひとつでしょ! 食べられるおいしいものを作る! なのに、でかい図体してそれくらいで腰が引けちゃってどうするのよ!」
言いながら、今度はリリアンがバシッ! とハロルドのお尻を叩いている。
「うっ!」
その光景を見ながら私は笑いをこらえるのに必死だった。
普段あれだけ傍若無人なハロルドが、頭ひとつどころかふたつ分くらい小さいリリアンにあんなにばしばししごかれているなんて……!
思わぬ一面を見てついつい笑いそうになってしまう。
見れば、アン、ラナ、イブだけではなく、ユーリ様もふるふると肩を震わせていた。間違いなく笑いをこらえているわね、これ。
そしてリリアンとハロルドって本当に……いい夫婦になりそうよね。本人たちには言えないけれど、心の中でそう思うぐらいは許してくれるかしら?
私がそう思っている横で、やがてハロルドがパンッ! と大きな両手で自分の頬を叩いた。
「……っはー! わりい、目が覚めたわ。確かにそうだよな。俺は天才料理人なんだ。なら、これぐらいで怖気づいている場合じゃねぇ!」
「自分で天才って言っちゃう人初めて見たわ。……まぁ、元気が出たんなら、さっさと仕事しなさいよ」
言って、リリアンがフンとそっぽを向く。
けれどその顔は、どこか嬉しそうでもあった。
ふふっ。もしかしたら、ハロルドが調子を取り戻したのが嬉しいのかしら?
ニコニコしながら見ていると、ハロルドがいつもの調子で私を見た。
「で、王妃さんよ。実際のところ、今はなんなら食べられそうなんだ?」
聞かれて私はうーんと考えた。
「それが正直、私にもわからないのよね……」
言って説明する。
「まず、どんなものであれ匂いが強いものは全体的にダメなのよ」
たとえそれがパンの焼ける香ばしい匂いであっても、つわりの時は容赦なく吐き気として襲ってくる。
以前好きだったかどうかなんてまったく関係ない。
「それから……何が食べられるか、その日になってみないとわからないの。ある日は食べられていたものが、次の日はまったく受け付けなくなったりなんてざらよ」
ようやく食べられるものを見つけた! と思った次の日、それが食べられなくなった時の絶望と言ったら。
クラッカーもそうよ。もともと以前は少しだけ食べられていたの。だからこそユーリ様が差し入れてくれたのだけれど、今はもう全然だめになってしまった。
私の話を聞いていたハロルドがふーむと唸る。
「妊婦全員に共通して食べられるものというのはないのか?」
「それが……お母様と妹にも聞いてみたのだけれど、人によって違うのよ。それどころか、その時々によっても全然違うみたいで」
私を含め、四人もの子供を産んだお母様はこう言っていた。
『でもねぇ、四人ともつわりはあったのだけれど、その時で全然違ったのよ。エデリーンの時はとにかく果物と野菜、味の薄いものを食べられていたんだけれど、ジャクリーンの時は逆に濃いこっくりとしたものが好きで。オーリーンの時は酸味のあるものを食べていたわね。トルケの時は塩気よ。とにかく強い塩気のものを食べていたわ』
つまり全員食べられるものが違うということなのよね。
ちなみに次女ジャクリーンは全然参考にならなかったわ。
だって、聞いたらこう返されたんだもの。
『それが、わたしは全然つわりなかったのよね~』
問答無用で帰ってもらおうかと思ったわ!
なんて羨ましい……! あの子、ああいうところ本当に運がいいのよね。
思い出しながら私はぐぬぬと拳を握った。
目の前では私の話を聞いたハロルドが考え込んでいる。
「とりあえず匂いの強いものは絶対だめ、と……。とにかく色々試行錯誤してみるしかねぇみたいだな」
「といっても……」
そこで私は言った。
「つわりっていずれ収まるんでしょう? なら今だけの辛抱よ」
そう思ったのに、部屋にいる女性たちの反応はかんばしくなかった。まるで歯にものがつまったような、なんとも言えない顔をしている。
「……今だけよね?」
私はもう一度聞いた。
まさかこれが、出産まで続くなんてこと、ないわよね……?
私の不安を察したのか、アンが励ますように言った。
「だっ、大丈夫ですよ! つわりの時期が終われば、大体の女性はつわりが治まると聞きますから!」
「で、ですよぉ~! みなさん大体、それを過ぎればなんともないって聞きますわぁ」
……気のせいかしら。なんだかやたら〝大体〟って言葉を強調されているような……。
私がいぶかしんでいると、一番小柄で桃色の髪をしたラナがぼそりと呟いた。
「…………でもわたしの伯母さんが、出産までずっと気持ち悪かったって」
そんなことあるの!?
「こらっ! ラナ!!!」
「余計なことを言っちゃだめぇ~!」
アンとイブのふたりが、あわててラナの口をふさいでいる。
「やっぱりずっと終わらない人もいるのね!?」
私は叫びを上げた。アンたちがあわててフォローする。
「そういう方もごくまれにいらっしゃるだけですから! ごくまれに!」
「きっと大丈夫ですよぉ、おそらく、たぶん……」
………………だいぶ心配だわ……。
つわりって本当人によって全く違いすぎてすごいですよね。
何を隠そう私もつわりのないジャクリーンタイプだったのですが、周りの家族やお友達たち全員つわりが激重で、聞いている私が震えていました。






