第148話 ……今のところは。
「エデリーン、体の調子はどうだ?」
「ユーリ様……。ごめんなさい。せっかく用意していただいたクラッカーなのですが、食べられそうになくて」
私が謝ると、ベッドそばの椅子に座ったユーリ様がそっと私の手を握る。
「今はそんなこと気にしなくていい。自分のことだけ考えるんだ、エデリーン」
その声は低く、優しくて。
ユーリ様はいつも優しいのだけれど、私のつわりが始まってから――ううん、私の妊娠がわかってからは、さらに優しくなった。
私がどこへ行くにも必ずそばにつきそって、万が一にでも転んだりしないよう支えてくれて。
あまりにも私のそばにいるものだから、この間なんてついつい「あの、公務は大丈夫ですの?」なんて聞いてしまったくらいよ。
そしたら、
「夜、君が寝ている間に片付けているから問題ない」
と返ってきてしまって。
もちろんそんなことを続けていたら国王であるユーリ様が倒れてしまうからこっぴどく叱ったわ。だから今日は、この時間になってからやってきたのでしょうけれど……。
「何度も言っていますが、私にはアイやホートリー大神官、それに侍女たちがついているので大丈夫ですからね?」
私の言葉に、ユーリ様が「ぐぅ」とうなる。
「そ、それはわかっている……」
……本当かしら?
私がいぶかしんでいると、隣からどん! と胸を叩く音がした。
「だいじょうぶだよ、パパ! アイがちゃんとママのことまもってるからね!」
ふんす! と鼻の穴を膨らませたアイが力強く言っていた。
それを見たユーリ様がフッと笑って、大きな手でくしゃりとアイの頭を撫でる。
「……そうだな。アイは頼もしいな」
「ふふふ、アイの笑顔を見ていると、それだけで元気が湧いてくるようです」
私が言うと、その途端なぜかユーリ様からドヨドヨとした音が聞こえ始めた。
ん!? どうしましたの!? 今の言葉にユーリ様が落ち込むところ、ありました!?
「ユーリ様……!?」
「いや、すまない……。アイはこんなに頑張っているのに、それに引き換え、私はなにも君の役に立てないと思ったら、自分の無力さが情けなくなってきてしまい……」
「!? 何をおっしゃいますの!? ユーリ様はもう十分支えてくれているじゃありませんか!」
「だが、君の食べられそうなものひとつ私にはわからない……」
「まぁ!」
まさか、ユーリ様がそんなことを気にしていたなんて。
「食べられるものなんて、私本人ですらわからないですわよ!?」
「そう……なのはわかっているのだが……元気がない君を見ていると……」
しかもドヨドヨが、悪化してくる。
その落ち込みっぷりに、申し訳ないけれど私は少し笑ってしまった。
「もう! 魔王を制して国を守ったお方が、なんて気弱なことをおっしゃるんですか! ……それなら、どうぞこれで元気を出してくださいませ?」
言いながら、ぐいっとユーリ様の手を引っ張る。
それから引き寄せられたユーリ様の頬に、私は身を乗り出してちゅっと口づけた。
「っっっ!?!?!?!?」
その瞬間、ユーリ様の顔がぼぼぼぼっと赤くなる。
「わぁーお」
と声を上げたのはアンだ。
「エデリーン様ったら、だ・い・た・ん♡」
「仲が睦まじいようで何よりですぅ」
侍女のラナとイブも、はやし立ててくる。
「わあ~お!」
さらにアイも、小さなおててで顔を隠しながら――と言いながら指の間からしっかりキラキラのおめめを覗かせながら――嬉しそうに叫んでいる。
「エデリーン……!」
アイと同じく目をキラキラと輝かせるユーリ様に、私は照れ隠しでぷいと顔を背けた。
「こ、このくらいなら夫婦の挨拶としては常識の範囲内でしょう?」
「……なら、毎日してくれ」
言って、ユーリ様ががしっと私の手を掴む。
「なっ!?」
ゆ、ユーリ様が突然強気になった!?
そういえばこの人、時々急にこういうことを言い出すの忘れていたわ!
「あ……だが……」
かと思うと、ついさっきまで強気だったユーリ様がまたしょんぼりと肩を落とす。
「その……体調的に厳しいようだったらもちろん嫌だと言ってくれて構わない。その……つわりの最中は、夫の体臭もダメになる女性がいるのだろう……?」
なんておずおず聞いてくる。
その姿はまるで、しょんぼりと耳を垂れた大型犬のようで。
「……っふふ」
思わず私は笑ってしまった。
「ユーリ様ったら、どこからそんな情報を仕入れたんですの?」
確かに、つわりになってから匂いに対してとても敏感になっている。
小麦粉の焼ける香ばしい匂いもダメになってしまったし、チーズの匂いなんて嗅いだ瞬間吐き気が止まらくなってしまうから、最近は私だけじゃなくアイたちにも控えてもらっているくらいだ。
「い、いや……その、侍女たちがアドバイスしてくれたんだ。妊婦は人の匂いにも敏感だから、常に清潔を保つようにと。最近は日に二回は風呂に入るようにしているのだが、大丈夫だろうか?」
なんて言いながら、心配そうに自分の体をくんくんと嗅いでいる。
その姿はやっぱり大型犬のようで、私はまた笑った。
「大丈夫ですわ。ユーリ様から嫌な匂いはいたしません」
……今のところは。
「そ、そうか。よかった」
私の言葉に、ユーリ様は露骨にほっとした顔になった。
そんなところまで気遣ってくれるなんて……ユーリ様はやっぱり優しい方ね。教えてくれた侍女たちにもお礼を言っておかなければ。
そしてふと気が付くと、隣にいたアイもくんくんと一生懸命自分の匂いを嗅いでいた。
「アイはだいじょうぶかなあ……!?」
どうやらアイも、匂いを気にしてくれているらしい。
その姿が可愛くて、私は両手でアイをぎゅうっと抱きしめた。
「ふふふ。アイはいつだっていい匂いよ。ミルクみたいな甘~い香り。嫌どころか、ママはアイの匂いが大好きなの。ずっと嗅いでいたいわ」
私の言葉に、アイが嬉しそうに笑う。
「えへへっ。よかったぁ」
そこへまたコンコンコン、というノック音がした。
誰か見に行った侍女のラナがくるりと振り返る。
「エデリーン様。ハロルドとリリアンが来ていますが、お通ししてもよいですか?」
「ハロルドとリリアン?」
ハロルドは食事まわりで会うことは多いし、リリアンもハロルドほどではないけれど、ホートリー大神官の付き添いでちょくちょく会っている。
でもふたりそろってこの部屋に来るのは珍しいかもしれない。
というかこのふたり、ハロルドはいつも厨房にいるし、リリアンは神官として働いているはずなのに、あいかわらずよく一緒にいるわね?
そのことを少し微笑ましく思いつつ私は答えた。
「ええ、もちろんよ」
私の声にラナがドアを開けた。
その瞬間――。
匂いで「こっちに来ないでくださいませ!」と言われるユーリも見たかったのですが、さすがにかわいそうすぎてやめました。






