紫蘭の湖 9
「そこにいて」
瀬名はそう言うと、大丈夫、大丈夫とつぶやいた。
赤子をあやすような穏やかな声色で、自分に言い聞かせていた。
そして、ローファーと紺のソックスを脱ぐと、ゆっくりと星の湖へと足を入れた。
「瀬名?」
思わず駆け寄る。
「大丈夫よ、この湖は底が浅いの」
自殺するとでも思った? と君は笑うけどさ、こっちは肝が冷えたよ。まあ、いたずらっぽく舌を出した横顔が可愛いから許すけどさ。
「湖に入って何をするの?」
「決まっているわ。お父さんを捕まえるのよ」
膝まで湖に入った瀬名が言う。
五月とはいえ、夜の水は冷たい。
時折体を震わせながらも、どんどん進んでいき、気が付けば水は太ももまで達していた。
穏やかな夜風が、彼女の髪を撫でる。
月明りに照らされ、さらさらと揺れる黒髪は艶めいていた。
湖の中で星空を仰ぎ見るその姿はどこか神秘的で、彼女を含め、ひとつの絵画のようだった。
瀬名がゆっくりと目を閉じる。
「……お父さん」
そして、両手をそっと湖に差し入れて、すくうようにして持ち上げた。
風がやむ。
水面の揺れがおさまる。
水を打ったような静けさ。
虫の音も、蛙の歌も聞こえない静寂に包まれた世界で、瀬名の声が透き通る。
「お父さん、つかまえた」
すくい上げた水の中で輝く、夜空の星。
彼女のイタズラをこよなく愛したお父さんは、いま、鬼に捕まった。