紫蘭の湖 8
こげ茶色のローファーが透き通った湖に向かうたび、彼女の顔は穏やかになっていった。
ふと、紫蘭の前に来て、瀬名の足が止まる。
「子を捕まえたらね」
静かに湖を見る。
「私はもう鬼ではなくなってしまうのね」
「うん」
「じゃあ、これで、鬼ごっこは終わってしまうのね」
瀬名が花飾りをそっと撫でる。
「瀬名?」
「何故かしら、少しだけ寂しいのよ」
皮肉ね、と彼女が続ける。
「ずっとお父さんを捕まえたかったのに、いざそうしようとすると躊躇ってしまう。何度もここにきては帰る。その繰り返し。今までずっとお父さんとあそんでいたようなものだったから、それがなくなると思うと」
やっぱりね。
細い眉を八の字に、瀬名が力なく笑った。
なんとなく。
本当になんとなくだけど、彼女が僕を連れてきた理由が分かった気がした。
何度もお父さんを捕まえようとしたイタズラ娘。
けれど、もう少し遊びたかった鬼。
そんな葛藤に板挟みにあった背中を、誰かにちょっとだけ押してもらいたかったかもしれない。
本当になんとなく、そう思った。
だから、少しだけ、ほんの少しだけ押してみるね。
「ねえ、瀬名」
「なに?」
「瀬名のお父さん、もういい年だと思うんだよ」
だからね、と言う。
そんな僕の話の意図が見えずに、彼女は首を傾げた。
「だから、いつまでも鬼ごっこなんて子供の遊びはしてられないんだよ」
「そうかしら」
「うん、きっとね。ひとり天国で鬼ごっこなんてしていたらさ、まわりのひとに変な目でみられちゃうよ。そんなもので済めばいいけど、神様なんかに目をつけられたら危険人物として認識されて、もしかしたら生まれ変わらせてもらえないかもしれないよ?」
「無慈悲な神様もいたものね」
瀬名がほほ笑む。
「世に危険人物を送り出すよりはいいと思うよ」
「ちょっと。ひとの父親を危険人物扱いしないでもらえるかしら」
自慢のお父さんなのよ、と言いながら笑い出した。
さらに、僕が「だって考えてみてよ。雲の上で必死に捕まらないように逃げ回っているんだよ?」というと、「もう、やめてよ」と、声を出して笑い出した。
「それにさ」
「それに?」
目尻の涙を拭う瀬名をしっかりと見据えた。
「いつまでも鬼ごっこしてたら、僕が他の遊びに誘えないじゃないか」
瀬名の柔らかな唇から「えっ」と、声が漏れる。
「君と遊びたがっている男の子もいるってことだよ」
ここにね、と僕は続けた。
すると彼女は照れくさそうにうつむくと、小さく笑みを浮かべ、大きなため息をついた。
「鬼ごっこの次は缶蹴りかしら」
花飾りを撫でながら。
照れているのか、可愛いやつめ。