紫蘭の湖 7
彼女の今までの言葉がパズルのように合わさっていく。
そして頭の中に、やはり泣き出しそうな女の子の絵が完成しつつあった。
「それじゃあ、今から探しに行く子は、その、もう」
言い淀んでいると、瀬名は明るく言った。
「いいえ、この先にいるのよ、きっと。何故かそんな気がするの」
手を後ろに組み、くるりと振り向いた瀬名はおどけたように言った。
「言っておくけど、私、霊感なんてないから安心して」
「そんな変な顔で言われても」
僕は言った。
すると彼女は、何を言っているの? と、さらにおどけて見せた。
「こんな可愛い子をつかまえて、なんて失礼な」
ひょうきん者め。
それにね、と瀬名が続ける。
「今日は、あなたが一緒だから」
だから、大丈夫。
そう言って、柔らかい笑みを浮かべた。
そして、僕の目を見つめながら、垂れ下がった枝葉のカーテンを開け、ようこそ、と言った。
「ようこそ、私のとっておきの場所へ」
僕の目に飛び込んできたのは、ひとつの絵画のような世界だった。
しだれ柳のカーテンの向こうに広がっている光景に、思わず息をのんだ。
魅了された。
ただ、一瞬。
心が奪われるには、それだけで十分だった。
―――湖。
開けた場所の中心に、大きな湖があった。
水は澄んでいて、ここからでも底が見える。
穏やかに吹く夜風が、水面を静かに揺らす。
そして、その湖を囲むようにして自生している、紫色の蘭。
「きれいだ」
簡単に、そんな言葉が出てしまうほどに。
水面に蘭の花と星空が映り、表現できない美しさがあった。
そりゃあ、息だって飲むさ。
小石を投げ込むだけで壊れる儚さ。
足を踏み入れるのさえ躊躇う、その美しさ。
瀬名が口を開くまで、僕は名もなき名画に見入っていた。
「ね、きれいでしょう」
瀬名が言う。
「うん、これはびっくりだね。とてもきれいだ」
とっておきにしたくなるね、と僕は答えた。
「ここに来るのは久しぶりなのだけれど、やっぱり素敵な場所だわ」
「まさか、イタズラ娘がこんなところを知っているなんて思わなかったな」
冗談めかして言うと、彼女は空を仰いだ。
「お父さんがね」
「うん」
「お父さんが、大好きだったのよ。私のイタズラが」
「君のイタズラを?」
「ええ、そう。瀬名のイタズラは元気になる、なんて。イタズラをするたびに、お父さんが喜んでくれたの」
「賛同しがたい教育方針だ」
「あら、そんなマイノリティな教育の賜物が私なのよ」
僕が言うと、失礼しちゃうわ、と瀬名が笑った。
「お父さんが大好きだったから、私はイタズラ娘を続けたの」
「つまり?」
「私がたくさんイタズラをしていれば、遠くにいるお父さんにも分かるんじゃないかと思ったの」
あなたの娘は元気ですって。
「だからサドルを隠したりしたんだね」
「そうね、思った以上に楽しめたわ」
二人で小さく笑う。
「届いているかな」
お父さんに。
独り言のようにつぶやいた彼女を見る。
星空に思いを馳せるその横顔は、どこかすっきりしているように見えた。
イタズラ娘がイタズラ娘である理由。
『あなたの娘は元気です』
笑い合うことも、抱きしめ合うことも叶わないひとに、瀬名はいつも話しかけていた。
煌めくだけで、決して答えてくれないお父さんに。
優しさに満ちたイタズラで。
『あなたの娘は元気です』
届かない思いが、
いつか、届くように。
お父さんの大好きなイタズラで。
瀬名は星空を仰ぎ見たまま、湖の方へと、一歩、また一歩と歩んだ。
星はあんなに高いところで輝いているのに、どうしてか、星と彼女の距離が近くなるように思えた。