紫蘭の湖 6
「私の両親は仲が悪かったの。顔を合わせるだけで口喧嘩。それはもう、子供の前でもお構いなし」
見ていて心苦しかったわ、と彼女が目を伏せた。
「私は両親に仲良くしてほしかった。ただそれだけ。手を繋いで買い物に行って、食卓は笑顔と会話で満ちて、ご馳走様の挨拶でみんなで寝転ぶの。おいしかったねって」
ただ、それだけでよかったのに。
腰に巻かれた腕に力が入る。
「ある日、お父さんが言ったの。お父さんと鬼ごっこしないかって」
くすっと瀬名がほほ笑む。
「嬉しかったわ。遊んでもらうなんてずいぶんとなかったから」
「瀬名はとてもはしゃいだんだろうね」
すると、ええ、もちろん! と答えた。
「とても喜んだわ。すぐに着替えをして、お気に入りの髪飾りを付けて。お父さんと手を繋いで出掛けたのよ」
あの木までと、段々と近づいてくる杉の木を指さした。
太い幹から無数に分かれた枝葉が、天高く背を伸ばしていた。
濃い緑の葉が夜風に揺れる。
「大きな木だ」
「私とお父さんのとっておきの場所よ」
杉の木の下に自転車を停める。
あたりはすっかり夜に包まれていた。
静まり返った森の入り口から、むせかえるような土の匂いと、控えめな花の香りがする。
瀬名は荷台から降りると、スカートのしわを直した。
夜空に両の掌を伸ばすと、ひとつ深呼吸をする。
「さぁ、行きましょう」
子を探しに。
瀬名のうしろをついていく。木のすぐ向こう側には、木々がうっそうと生い茂る森があり、歩みを進めるにつれひんやりとした空気に体が包まれる。歩く道は人の手が加えられていない自然のままで、草は膝丈まで伸びている。
昨日まで降った雨のせいで、足元がぬかるんでいる。
「それでこの場所で、鬼ごっこをしたの?」
月明りが照らす彼女の背中に問いかける。。
「えぇ、そう。もう少し行ったところに開けた場所があるのだけれど、あの時はそこで遊んだの」
振り返ることなく答える。
どこか懐かしむような、悲しむような。語尾がだんだんと弱くなる。
「じゃんけんに負けて、私が鬼になった。お父さんは百まで数えたら追いかけてきなさいと言ったので、私は木の幹に向かい、数字を数え始めた」
1……2……3……
「そして、やっと数え終わってお父さんを探したの。森の中を駆け回ってね。百も数えさせて逃げるなんてこれじゃかくれんぼみたいっておもいながら。だけど、、だけどね」
瀬名の足が止まる。
彼女は言葉を紡ぐことが出来ず、苦しそうに俯いていた。
顔は見えなかったけど、きっと辛そうにしている。小さな背中が、助けを求めていた。
「それで?」
僕は訊いた。
「お父さんは、見つからなかったんだね?」
少しの沈黙の後、小さな頭が小さく縦に揺れる。
「結局、お父さんは見つからなかった」
―――ずっと鬼なの。
「だから、あの時、あんなに悲しそうにしていたんだね」
―――鬼ごっこ、してるの。
―――鬼ごっこ? まだ見つからないの?
―――そう、ずっと探しているの。
「あなたはあの時、もう夜になろうとしていたのに一緒に探してくれたわね」
ありがとう、と力なく笑う。
「帰り道までね。結局探せなかった」
名前もまだ知らない女の子にただ笑ってほしくて。
僕らは手を繋ぎ、子を探しながら街までの道を歩いた。
その間、女の子は一度も顔を上げなかった。
どこかであきらめていたのかもしれない。
時折強く握る小さな手を、僕もまた強く握った。
「家に帰ってお母さんに訊いたの。お父さんはどこ? って。そうしたら、お父さんはね、遠いところに行ったの。お星さまになったの、と言われたわ」
瀬名はこぶしを握り締めた。
ひとり、悲しみに耐えるように。
「それからしばらくしてね、お父さんが死んだって知らせが入ったの遠い遠い、私の知らない街で」
本当にお星さまになったの、と作り笑うと、再び歩き始めた。
「亡くなったんだ」
「そう。だから私は鬼のまま」