紫蘭の湖 5
それから僕はひたすらペダルを漕ぎ続けた。
どこへ向かっているの? と聞くと、この道をまっすぐ。ただそれだけ。
だから僕も、ただひたすらにペダルを漕ぐ。ただそれだけ。
ちなみに、もう立ち漕ぎではない。
先ほど、瀬名がスクールバックからサドルを取り出し、「はい、あなたのでしょう?」と手渡してくれたのだ。
「君が僕のファンなの?」
そう聞くと、彼女は眼を見開き、まさか! と声を上げた。
「私はただ、お尻を拉致されたひとはどんなリアクションをとるのか見てみたかっただけよ」
このフェチめ。
素晴らしいね、青春。
夜の帳が下りると逢魔が時の静けさは失せ、蛙の鳴き声が聞こえ始めた。
昨日まで降っていた雨を恋しがっているような歌なのか、明日は雨が降ることを願った雨ごいなのか。
どちらかは分からないが、今夜は星が輝いていてとても綺麗だった。
「ねぇ、見て。星が降ってきそうよ!」
そんな歓声が聞こえるほどに。
空気は澄み渡り、五月の夜は少し肌寒かった。
「ねぇ、瀬名。そろそろ探している子が誰なのか聞いてもいいかな」
僕は言い、「花飾りはいじらなでね」と続けた。
「……あなた、後ろに目でもついているの?」
やっぱりね。
「実は二個ほどね」
「みんなには秘密だよ」と笑うと、瀬名もまた微笑んだ。
「私ね」
「うん」
「私さ」
―――少しの沈黙。
―――少しのため息。
そして車輪の回る音に負けてしまいそうな小さな声で語り始めた。
「私って、お父さんいないじゃない?」
「うん」
「なんで居なくなったか、あなたに話したことあったかしら?」
「そういえばなかったね」
何度か聞こうと思った。
けれど、話の流れがそうなると、決まって瀬名は俯き、花飾りをいじる。
―――聞かないで、ごめんなさい。
プラスチック製の花飾り。
キラキラ光る紫色の花が、無言でそう訴えていた。
だからいつも、ああそういえばねと、当たり障りのない話題へと変更した。
イタズラ娘に、そんな顔をしてほしくなかったから。
「そう」
不意に、僕の腰に細い腕が巻き付いてきた。
「少し、寒くなってきたから」
「そうだね」
また少し、僕の胸が締め付けられた。
きゅっ、きゅっ。