紫蘭の湖 3
僕は今朝までサドルがあった場所を見ながら、苦笑いをする。
「ねぇ、瀬名。言いたいことと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「えぇ」
構わないわ、と彼女が言う。
「僕のサドルはどこかな。そして出来ればサドルを返してくれないかな」
呆れたように言う僕に、瀬名はおどけたように答える。
「あら、まるで私が犯人のような言い方ね」
心外だわ。涙を拭うような仕草をする。
「じゃあ、僕のお尻を優しく受け止めていたサドルはどこにいったのさ」
「知らないわ。駐輪場に行ったら、すでにそのすがただったもの」
ああ、そう。
「でも、そうね。もしかしたらあなたのファンが持って行ったのかも。好きな子の縦笛にあれやこれやするじゃない? その延長線上ね、きっと」
ああ、そう。
それじあ、今頃僕のサドルは見知らぬ女子(で、あってほしい)にあれやこれやされているのか。
「モテるっていいわね。青春よ、青春」
そうだとしても、そんなフェチにまみれた青春は御免被りたいね。
瀬名は素早く荷台に座ると、早く行きましょうと急かした。
立ちこぎしかできなくなった自転車にまたがる。
きっと、どこかの優しいイタズラ娘が僕の脚力向上に一役買うためにサドルを隠したのだろう。
素晴らしいね、青春。
ちなみに理由の三つ目。
それは、瀬名にイタズラをしてほしかったからだ。
つまり、僕も将来ましな大人になれはしないのだ。
ペダルに足を乗せると、思い切り踏み込んだ。