優しい嘘つきと鬼ごっこ
瀬名とここに来るのは、もう何度目だろう。
もう両手じゃ足りなくなってしまった。
あの夜。
星の降りそうな湖で、彼女の鬼ごっこは終わった。
お父さんを捕まえる前までは不安がっていた瀬名だったが、湖から上がった彼女の顔は晴れ晴れとしていた。
星をすくうなんてしゃれたことをするじゃないかと思いながら、お見事、と言うと、「えへへ、終わっちゃった」と、屈託のない笑みを浮かべていた。
瀬名を見る。
湖のほとりにしゃがみ、微笑みながら紫蘭を一輪摘んでいた。
それが、帰る合図だった。
いつも帰り際になると紫蘭を一輪摘み、そっと湖に浮かべる。それが何を意味するのか、その時は分からなかったが、自宅にあった植物図鑑をなんとなく見た時に謎が解けた。
瀬名が立ち上がり背伸びをしたのを確認すると、宝石をちりばめたように輝く夜空を見上げる。
そして制服の胸ポケットに隠してあった封筒を、彼女に気付かれないように、水面に浮かべた。
拝啓
初めまして、瀬名のお父さん。
娘さんはとんでもないイタズラ娘ですね。
でも、とても優しいイタズラ娘です。
会ったことはないけれど、きっとあなたにそっくりなんでしょうね。
今日はお父さんにお話しがあって手紙を書きました。
聞いていただけますか?
瀬名はずっと鬼ごっこをしていました。
それが、遠い遠いところにいってしまったあなたとの唯一の繋がりだったから。
彼女は行動派だから、その気になればいつでもお父さんを捕まえられたと思います。
けれど、それをしなかったのは、やはりあなたとの繋がりを無くしたくなかったから。意外と寂しがり屋なんですよ、彼女。
だから、今でもこの場所に来ては、優しく笑うんだと思います。
そして、今でもこの場所に来ては、紫蘭を一輪摘んでは水面に浮かべるんだと思います。
お父さんはもう瀬名の隣にはいれないけれど、それでも彼女が星空を見上げる限り、あなたは瀬名の中で笑っています。イタズラされるたびに喜ぶ、あなたの顔が。
だから、お願いします。
どうか、いつまでも瀬名を照らす光であってください。
どんなに遠いところにいても、イタズラ娘の父親は、お父さんだけなんですから。
長くなりましたけど、最後にひとつだけ。
お父さんも男の人だから、花については詳しくないと思います。
特に、花言葉なんて。
だけど、ひとつだけ知っていてください。
瀬名は、囲むようにして花が咲き誇る湖を、とっておきと言った。
そして、彼女が小学生のときから毎日付けていた花飾り。
可憐に咲く、紫の蘭。
紫蘭は、瀬名がお父さんへと送っていたメッセージです。
大好きな父親に、毎日欠かさずに話しかけていた言葉です。
紫蘭がささやく花言葉。
それは―――
「ねえ。早く帰りましょう。お腹が減っちゃったわ」
背伸びをしながら、僕のところに歩いてくる。
「そうだね、ところでさ、訊きたいことがあるんだけど」
「ええ、何かしら」
「ペダルが片方ないみたいなんだ。どこにいったか知らない?」
すると瀬名は、さあ、知らない! と、顔をくしゃくしゃにして笑い、僕の手を引いた。
繋いだ手はとても温かい。
時折強く握られる瀬名の手を、僕もまた強く握った。
紫蘭がささやく花言葉。
それは―――
あなたを忘れない。