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〈今更ながらのプロローグ〉
昔々のお話です。本当にあったのかどうかも疑わしいお話しです。
ある世界に一人の少女がいました。その世界には少女しかいませんでした。少女は長い時をずっと一人で過ごしていましたが、様々な知識を持っていました。誰に教えられるでもなく、言葉を話し、数学を知り、特殊相対性理論すら理解していました。
たとえ言葉を知っていても、少女には言葉を交わらせる人もなく、理論を開陳する相手もいませんでした。けれど、少女は疑問を持ちませんでした。世界はあらゆる物で満たされていたからです。少女の飽くなき好奇心をもってしても、世界に存在する無限の知識を知るには時間が幾らあっても足りません。知らない事を知るのに夢中だったのです。
ずっとずっと、この時が続いていくかのように少女は振舞っていましたが、それは簡単に終わりを向かえました。もっとも、世界が変わったわけではありません。少女の中で何かが変わったのです。
変化は辞書を読んでいる時におこりました。少女は辞書が好きでしたが、読破はしていません。
辞書には少女が知らなかった概念が記してありました。
<他人>自分以外の誰か。
<他人>という言葉は知っていましたが、意味と概念は知りませんでした。自分以外の人とは何なのでしょう。少女は『自分』しか知りませんでしたから、自分以外の誰かなんて想像も出来ませんでした。
それからというもの、少女は他人について考えない日はありませんでした。考えは少女に更なる疑問を提議してきます。会話も疑問の一つです。少女は会話をした事がありません。試しにお気に入りのキリンのぬいぐるみに話しかけたりしましたが、勿論会話など成り立ちません。人と話しをするのはどんな感じなのでしょう。疑問が疑問を呼んで少女は不思議な気持ちになりました。肌がざわつき、心臓がとくとくいって、とてもとても悲しくなりました。新しく立ち現れた感情は、いつも心のどこかにいて少女に語りかけてくるのです。
他人ってなに?
会話ってなに?
それは少女が語りかけてくる声に慣れた頃おこりました。
少女は石でできた三角形の建築物にいました。丁度中腹あたりで寝そべり、本を読んでいました。風にあおられた砂が飛んできて、本のページがざらついたりしましたが、おおむね快適な場所なのです。
ページについた砂を払おうと、少女は息を吹きかけました。
すると何処からか笑い声が聞こえてきます。少女以外には誰もいないのに、笑い声が聞こえてくるなんておかしなことです。少女は知らない間に自分が笑ってしまったのかと思いました。前にも似たようなことがあったのです。けれど声は明らかに少女の声ではありません。
視界を覆っていた本を胸元へ下ろしてみます。ひらけた視界に見えるのは、うそ臭いほど澄んだ青空と、青空をおおう影。少女は影に焦点を合わせ、影の正体を確認します。
錯覚かと思いました。少女はずっと他人について考えていましたから錯覚を見てもおかしくありません。
「やあ」
影は穏やかに微笑みました。そう、そこにいたのは他人だったのです。にわかには信じがたい光景でした。この世界には少女しかいないのですから、驚いて当然です。とにかく、向こうが挨拶をしてきたのですから、こちらも挨拶を返さなければなりません。それが礼儀であると、前に読んだ本に書いてありました。
「おっおっおおおお、お早うございます」
人生初の挨拶で力んでしまったからでしょう。少女の声は上ずっていました。
他人は少女の様子がおかしいらしく、にこにこと笑っています。
少女は急に恥ずかしくなりました。本で読む限り挨拶はとても重要なものです。なのに上手く出来ないなんて、とても恥ずかしいことです。
少女は赤面してしまいましたが、他人はごく自然に少女の頭側に腰掛けました。今まで逆光になっていたので他人の顔が見えなかったのですが、座ってくれたおかげで顔が見られるようになりました。
黒髪には白髪が混じり、顔には所どころ皺が刻まれています。年齢は初老ぐらいでしょうか。おじいちゃんという感じではありませんが、明らかに若くはありません。
「はい、お早う。でもこの場合は初めましてかな」
柔和な笑顔をうかべながら他人は言いました。
少女はわたわたと起き上がります。いずまいを正してちょこんと座りました。丁寧にスカートを直す仕草は、誰もいない世界においてさえ、少女が少女として生きてきた証です。
「初めまして、わたしは……」
可愛らしくお辞儀をして、少女は挨拶をし直しました。けれど続きが出てきません。この世界では名前は不要です。ずっとずっと昔には名前があったのですが少女は自分の名前を忘れてしまいました。
思い入れはありませんでしたが少女は少しショックを受けました。今まで忘れていたことさえ忘れていたのに、思い出すと自分が何者なのか分からなくなったのです。急に寒気がしました。拠り所を無くした、いえ、亡くしていた少女は泣きそうになりました。
「アイ、なんてどうかな」
他人は優しく言いました。
少女はキョトンとして他人を見上げました。他人の方が頭二つ分は座高が高かったので自然と見上げる形になるのです。
「君の名前、アイでどうかな? 気に入らない?」
少女はぶんぶん頭を横に振りました。そして、とてもとても嬉しくなりました。
「ああそうだ」
自身の薄い胸に片手をあてがい他人は言いました。
「私は『……』これから暫くの間、やっかいになるよ」




