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「あっ」
少女は震えていた。恐怖ではなく、怒りでもなく、形を持たない模糊とした感情がせめぎ合い、身体の隅々までじわりと広がっていく。
瞳が濡れた。悲しくないのに、怖くないのに、どうしてか、悲しくもあり、怖くもある。少女は戸惑う。こんな感情は初めてだ。こんなに苦しいのは初めてだ。こんなに嬉しいのは初めてだ。
「遅くなってごめん。これでも急いだんだ」
震えながら泣く少女に、少年はとまどった。女の涙に対応する器用さを、少年はまだ身につけていない。
「遅いです、遅すぎます。レイジさんはとっても意地悪です」
嗚咽まじりに言う少女。
「いや、本当に急いだんだ」
言い訳まじりに弁明する少年。
「だってレイジさんはとっても意地悪だから、絶対にわざと遅く来たんですっ」
「いや、何故断言出来るの。俺は一度だって意地悪なんて」
少年の脳裏に、少女と過ごした短い時間がフラッシュバックした。
「してなくわないけど、でもっ」
少年が必死に訴えているのに、少女は口元を押さえて俯いている。どうすれば少女に信じて貰えるのか、少年は考えた。それはもう、死に物狂いで考えた。ここで少女を連れ帰れなければ、二度目があるとは思えなかった。
「く……くす……」
少女が苦しげに息を吹き出す。泣き声にも聞こえたが、少年は気づいた。
「笑ってるだろ」
「笑ってません」
否定しつつも、少女は明らかに笑っていた。
「なんか自分が凄い馬鹿みたいに思えてきた」
独り言のように少年はぼやいたが、少女に聞こえたらしい。
「馬鹿みたいじゃないです。馬鹿です」
目じりの涙を拭いながら少女は言う。
「ああ、まあ自覚はあるよ」
少年はきまり悪そうに、手を伸ばす。
「帰ろう、アイ」
少女は伸ばされた手をじっと凝視した。
その手は誘いの手。少女がずっとずっと待ち焦がれていたもの。
けれど。
「レイジさん、愛ってなんだと思いますか」
手を握る前に、聞かなければいけない。根拠はない。ただそう感じた。
「私は求め合う事だと思います。どちらかが一方的に求めるんじゃなくて、互いが互いを求め、必要とする事」
少女は微笑んだ。はにかむ笑顔には涙の跡。ふるふる震える睫が再びの落涙を予告している。
「レイジさんはどう思いますか? レイジさんの愛はなんですか?」
真摯な眼差しで問われ、少年は困惑した。少年は少年だけを見てくれるからアイを求めた。しかし、それが愛と言えるのだろうか。
違うと思う。こんな身勝手な思いはただの独占欲にすぎない。
では、俺はアイを愛していないのだろうか。
いや、それも違う。
「分からない」
少年の答えを聞いて、少女の瞳に湛えられていた涙が溢れた。
「でも、でも俺は」
涙は決して悲しみからではないと、少年は信じた。
「アイ、君を」
少女もまた信じた。少年が少女を求めている事を。
「愛してる」
曖昧で不安定な世界にまた一つ、不安定なモノが生まれた。
それはどうしようもなく幻想的であったが、揺らがない物でもあった。
脆いが故に確かな繋がり。人はそれを、絆と呼ぶ。
少女は瞼を閉じ、唇をわななかせた。わきあがる感情が、少女の小さな心からはみ出す。
「レイジさん」
少女は瞼を開いた。漆黒の瞳に、少年の姿を映し込み、手を伸ばす。細く儚い手に、掴みたいモノがある。あの時、彼が去った時から、二度と掴めないと覚悟していた。あの時、彼が亡くなってから、二度と届かないと覚悟していた。
様々な思いと、幾万の願いを込められた手が少年へと向けられる。
少年はよりいっそう手を伸ばした。
思いに答える為に。
願いに答える為に。そして何よりも、少女の絶望と悲しみを拭いさる為に。
伸ばされた二つの手は、互いを求めあい、やがて一つになった。
絡み合う指先。伝わる体温。混じり合う錯覚。
強く握りしめあった手に、二人は願いをかけた。
それはとても儚く美しい、幻想万華鏡のような願いだった。




