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「ままならないものだな。若者というのは」
階段の踊り場で如月は誰にともなくぼやいた。
もしかしたら階段に腰かけてうなだれている秋庭に言っているのかもしれないが、如月の視線は壁に向けられていた。
「自分の気持ちにすら、決着をつけるのに時間がかかる」
如月はズボンのポケットから煙草の箱を取出し、唇に一本くわえる。大きな銀色に光るオイルライターで火をつけ、軽く煙を吸い込み、浅くはいた。はかれた煙は霧散して、煙草の先から立ち上る紫煙はゆるゆると昇る。
「せいぜい悩むことだ。自分に折り合いをつけるまで」
暗い道を誰かが歩いていた。毛羽立った毛布を頭からすっぽりかぶっており、顔はおろか、性別も判然としない。毛布の隙間から垂れ下がる腕や脚の細さから、おそらく女だと思われる。
彼女の足取りはひどく頼りない。どうやら、道に迷っているらしい。何の変哲もない住宅街なのだが、彼女はうろうろうろうろ行ったり来たりしている。
まだ日が昇るには早い時間だから人目につかないものの、昼間だったら通報されていただろう。
彼女はアパートの前で歩みを止めた。奈瑞菜荘と書かれた看板を幽鬼めいた雰囲気で眺めている。茫然自失しているようにも見えたが、どちらかといえば決心をつけるまで時間をかけていると言った方が正確かもしれない。
やがて彼女はゆっくりと階段を上り始めた。見える手足は若々しいのに、老婆みたいに疲れきった上りかただ。
そして彼女は扉の前に立った。
彼女はのろのろと古めかしい呼び鈴へ手を伸ばした。しかし、すぐに手は下ろされた。手は頑なに閉じられ。びりびりと震えている。俯いていた彼女は何かに吊られるように顔を上げた。ぴたりと震えが止まる。
視線の先には表札と呼ぶのもおこがましい紙切れが枠にはまっている。紙には素っ気ない文体でこう書かれていた。
『犬神』
一度、二度、三度、彼女は首を振った。そしてまたゆっくりと手を上げる。指先に呼び鈴。今度はためらいなく呼び鈴がなる。
しばらく時が流れたのちおもむろに扉が開く。
「あっ」
彼女は声を漏らした。かすれた小さな声だった。
扉から顔を出した少年は胡散臭そうに口を開く。
「何か御用ですか?」
胡散臭そうなわりに、少年の声は優しかった。
「犬神鈴慈さんですか」
聞くと少年はさもめんどくさそうに答える。
「まあそうですが」
彼女は叫び出しそうになる。けれども弱った身体は叫ぶ余力をのこしていない。でも、それでも身体が叫んだのを彼女は自覚した。
その叫びが慟哭なのか、喝采なのかまでは。
彼女には分からなかったが。




