60
もう、この手を握る事はないのだと思うと、自然に力が籠もってしまう。
「いつっ、レイジさん?」
「あ、ごめん」
慌てて手を離す。急に恥ずかしくなって目を逸らした。
「いいですよ。レイジさんになら痛くされても」
「そんな言い方されると勘違いするよ」
笑いながら注意する。しかしアイは笑わなかった。
「勘違いなんかじゃないです」
アイはそっと俺の手を握る。
「レイジさんになら、痛くされても良いです」
濡れた瞳に俺の姿が映っていた。生気の失せた、情けない男の姿。
「時間、ないから」
アイから顔を反らして手をひく。今にも倒れかねない俺に、アイを抱きしめる事は出来なかった。
朝焼けと共に雀が鳴いた。
冷え込む空気に包まれて、秋庭は一つくしゃみをした。隣を歩く鷹乃宮がうっとおしそうに横目で睨む。
閑散とした高校構内を、二人は第四実験室を目指して歩いていた。事が全て終わったら集合する手はずになっている。あらかじめ開けておいた用務員室の窓から校舎に入り、階段を登る。
「遅かったな」
階段の踊り場に、如月が直立不動していた。如月の足元では冬馬が壁に寄りかかってコートにくるまり寝息をたてていた。
「レイジは?」
どこか敵意を含んだ声で鷹乃宮が聞く。焼けつくような瞳にさらされても、如月は淡々としていた。
「第四実験室だ。行かない方がいい」
その忠告は果たして本音だったのだろうか。鷹乃宮は早足で靴音を響かせながら廊下を突っ切る。
「おい待て、藍」
不安を感じた秋庭が鷹乃宮を呼び止める。しかし、秋庭の制止は無視された。何時もぶっきらぼうな鷹乃宮でも、答えすら返さないのは稀だ。力付くでも止めるべきか、秋庭が迷っている間に鷹乃宮は第四実験室の扉を開けていた。




