第三章 変化 その三
二週間も続けると、さすがに体も慣れてきたのか、朝のランニングはかなり簡単にこなせるようになっていた。もう少し続けた後、二日ほど休みを入れるのが定石なのだが、今回は無視することにした。
若い体だからだろうか、結構無理がきく。貧弱だった体も、一回りほど膨らんだ。
肌も少しだけ焼けたので、健康的な色を浮かべている。ほんの少しずつ変わっていったので、ミソラやカグヤなどの身近な人間には分からないが、久しぶりに会う人間はもう、コウキだとは分からないだろう。
とはいえ、未だに身近な人間の方が一番混乱しているのだ、が。
もっとも混乱しているのは、カグヤだった。
(何、あの生物………?)
朝、甲斐甲斐しく朝食を作る兄の姿を見て、常にそう考えていた。影響されているとして、二週間は長い。というより、だれている感覚がないので、終わるような気配を感じなかったのだ。
妙に綺麗になった、家の内装。腐ったと思っていた廊下の板も、カビの生えていた壁紙も、何もかもが新しくなっている。
まるで、新築。それをすべて直した人物は、キッチンで鍋を振るう。
頭にタオル、タンクトップにジーパン姿で、今日も朝ごはんを作る兄を見ながら、呟いた。
「………変だ」
そのコウキは、朝のみそ汁を作りながら、暑さに辟易していた。
「いやぁ、暑い暑い」
タンクトップにタオルを頭に巻くというラフな格好のまま、半眼でうめいた。今日は真夏日になる予定で、昼間には40℃近くまで気温が上がるという。
寒いのは我慢できるが、暑いのは我慢できない性質であるコウキにとって、夏の暑さはまさに、地獄そのものだった。その辺りは、入れ替わっても変わっていないらしい。
しかし、朝食はみそ汁を必ず飲むコウキが、みそ汁を作らないわけにはいかないので、暑いのを我慢して作っているところだ。
(ま、皆はそんなに食べないから、少なめでいいだろ。………今晩は久しぶりに、魚の蒸し焼きにでもするか)
頭の中でそんなことを考えながら、ふと視線を廊下に向ける。さっと隠れる妹の背中を眺めながら、胸中でため息を吐く。
(やっぱり、それなりに警戒されているなぁ。まぁ、妹を持ってるお兄ちゃんってのは、妹を疎ましく思う傾向があるようだし)
妹がいなかったコウキにとって、ミソラとカグヤは、眼に入れても痛くないほど可愛い姉妹といっても過言ではない。今は、少しだけ付き合い方に違和感があるものの、過剰ではない。
そんなことを考えながら、時計を見上げた。
「おっと、ランニングの時間だ。カグヤ、朝ごはんあるから適当に食べててくれよ」
コウキの言葉に、ドタタ、と廊下で音がたつが、コウキは気にせずリビングのソファーに掛けられたナイロン製のズボンに足を通すと、上着を腰にまわす。暑くなければ腕まくり程度にするのだが、今日は腰に巻いていくことにした。
入口で座り、ランニングシューズに足を入れているコウキの後ろに、カグヤが歩み寄った。足音で振り返ったコウキへ、カグヤが言葉をかける。
「………いってらっしゃい」
「―――おう!」
一瞬だけ驚きの表情を浮かべたコウキだったが、すぐに笑顔を浮かべると、そのまま玄関を出て行った。
その背中を見ていたカグヤは、小さくつぶやいた。
「なんか、悪くないじゃん」
兄が変わったのだと、確信することができたのだった。
家を出たコウキは、いつも通り河川敷を目指す。
「おう、お早う。今日も精が出るね」
「どうもどうも、いやいや、そちらこそ相変らず」
道中で、すっかり顔見知りになった老人とあいさつを交わす。朝6時過ぎで、休みではない会社員や商店街の人間が準備しているのを横目で見ながら、思考を張り巡らせた。
「今日は本当にあついから、午後はそうめんにするか。味噌味のそうめんがあるって聞いたことがあるけど、合うかどうか試してみよ」
そのまま住宅街を超えると、大きな川がある。
河川敷の堤防の上を走り、その先にある小さなサッカーグラウンドで軽く運動し、戻ってくるというのがコウキのプランだった。
というわけで、すでに見慣れた光景である河川敷の公園。高いネットに囲まれたサッカー場、そしてランニングコースとアスレチックのコースがある、大きめの場所だ。
駐車場から公園に入る、ちょっとした階段のところへ、背中に背負っていたリュックを置く。中からシートを出すと、自分の場所を確保した。
そのリュックの中には、数本の2ℓペットボトルと雑品。タオルを出して顔を拭きながら、一本のペットボトルを置いてリュックを背負う。
コウキの身体は、この二週間で少し丈夫になっていた。食事にも気を付け、勉強と家の改装以外の時間を肉体改造に費やしている成果でもある。
(まぁ、ゲームもやるんだけどな)
夏休みだからか、ついつい夜が更けてもゲームをしてしまうが、そこは社会人経験者。慣れているおかげか、問題は少ない。
リュックの肩掛けから伸びている数本のひもをしっかり巻きつけ、体に固定する。肉体改造の第二段階という事で、負荷トレーニングを始めるところだった。
靴擦れなどしないように靴を丁寧に履き、体全体を確かめるようにうねらせる。足首を回しながら、小さくつぶやいた。
「えっと、今日は有酸素を大目にして、アスレチックで簡単な筋トレをやっていくか。大体、二時間くらいか」
腕時計のアラーム機能を入れながら、まずは準備運動を始める。
その後、いつも通りサッカーのグラウンドでシャトルランをやろうとした時だった。
遠くの方から、甲高く耳障りな音が鳴り響いた。それは、徐々に大きくなり、やがて河川敷の堤防の向こうから、数人の集団が、バイクにまたがって入ってきた。
ちょうど、コウキが降りる堤防の下は駐車場になっており、堤防と堤防の間にあるサッカーグラウンドに向かうのはそこから入るしかない。
しかし、如何にも改造車であるバイクが四台、そこに入ってきた。二人乗りをしている奴もいたので、おおよそ六人、駐車場に色彩豊かな若者が現れた。
当然のこと、他の利用者もいる。夏休み中、しかもカレンダーの上では休日という事もあり、家族連れも来ているようだったが、其の集団がはいって来た時からは距離を取り始めていた。
「懐かしいなぁ………」
ぼそりと、コウキの口から思わず、言葉が漏れた。コウキではない『自分』が若かった時、あんな事をして周りに迷惑をかけていたような気がしたのだ。
(人数がいるから何かと強くなれたつもりでいたし、自分以外にも同じ奴がいて安心して、ずるずる引き延ばしてたなぁ。何であんな事してたんだか)
大人になって分かる事だが、結局のところ何の解決にもならなかった。同じように馬鹿していた奴でも、好きな人や好きな事が出来れば人が変わったかのように真面目になるものだ。
とはいえ、そういう人間がいること自体は、間違いではない。ようは自然発生するものであり、必ず何人かは出てくるのだ。
とりあえず関わり合う事もないので、そのまま駐車場に向かおうと、坂道を降りた時だった。
「ちょっと! 何すんのよ!」
「へへぇん。どうよ姉ちゃん。俺達と一緒にアそばねぇ?」
視線の先には、白地に青いラインの入った体操着を着た女の子が、如何にも頭の悪い三人に絡まれていた。その様子を、少し離れた三人がニヤニヤとした表情で眺めているのだ。
それを見たコウキがイの一番に感じた事は――――――
「すっげぇ………。本当にあるんだ、あんな事………」
そういった、関心だった。
長い間生きていたが、絡まれる女性など、せいぜい週末の酔っ払いに絡まれるOL位だった。そのOLも、自分の持っていたバックで殴り飛ばしたり、すぐに警察を呼んだりするので、助けた事がないのだ。
この、如何にもという光景が、実在している。その事実に、コウキは驚いていた。
「………とはいえ、見捨てるわけにもいかないよな。クラスメイトっぽいし」
脳裏に浮かんでくる名前は、塚原紗枝。同級生の中で、クラスで一、二位を争う人気者であり、運動部での期待のホープだった。
(そういや、クラスの女子の中でも、一人はいたよな。レベルの高い奴)
そんな考えが浮かぶというぐらいは、弘毅と面識があるようだ。
(ま、無視してられない、か)
ぎゃあぎゃあと騒いでいる三人組のグループへ、足を向けた。
自然体で、近づいていく。近づいていくと、さすがに気付いたのか、こちらに視線が集まるが、コウキは気にもせず、まっすぐ塚原の手を取っている男へ向かっていった。
「あ? んだよ、兄ちゃん?」
その頃になってようやく、最後の一人―――手をつかんでいる男と、目があった。塚原のほうは混乱しているのか、目じりから僅かに涙が見えた。
できる限りの笑顔を浮かべて、コウキは口を開いた。
「あのさ、彼女、俺の知り合いなんだ。悪いけど、手を放してくれよ」
恐怖は、ない。眉がない顔で、一般人が見たら一瞬息をのむような相手でも、コウキから見れば、見慣れた相手である。
コウキの言葉に、男は素っ頓狂な顔を向けていたが、やがて表情を崩すと眉を変な形に曲げた。ぐいっと顔を近づけてくると、やけに臭い息を吐きかけてきた。
「あんだ? 適当なこと言ってんじゃねぇよ?」
「適当?」
臭い息に眉をひそめていると、そんなことを言われて思わず聞き返してしまった。今の自分の発言に「適当」なところがあったのか、と考えている間に、周りからドッと笑い声が上がった。
ピキ、と頬の上あたりが引きつるが、同時に懐かしい感覚を覚えた。
(ああ、そういや、意味のない言葉でからかってたなぁ。………あんときは青かった)
変に対抗したつもりになって、結局は自分のやりたいことをやることしかできなかった、そんな過去。少なくとも自分が行ったことで、不幸になった人は増えても、幸せになった人はいなかったはずだ。
しみじみと、うなずいてしまう。そんなコウキを見て、周りの不良たちも怪訝な表情を浮かべていた。
俺も大人になったな、と胸中でしみじみと思いながら、口を開いた。
「まぁ、お前たちがどんなことしても、興味ないけどよ、ほかの連中に迷惑かけんな。お前たちの行為なんて、結局社会の範疇なんだからさ」
実際、そうだったのだ。
暴走行為なんて、警察が本気で捕まえに来ればほとんどの連中が捕まるし、「殺す」などといっても結局殺せないし、仮に殺したとしてもすぐに捕まり、人生の大半を損するのだ。
少年院に行くだけ、なんて甘い考えは捨てたほうがいい。そのあとの人生なんて、推して図るべきなのだ。
結局、大人の掌から出られる相手なんてない、ということなのだ
(と、言ってもその時の自尊心を満足させることしかない、できないこいつらなんて、何言っても馬の耳に念仏なんだけどな)
案の定、空気が変わったのが分かった。その証拠に、三人がそれぞれにまたがっていたバイクから降りて、コウキを囲むように動き出したからだ。
塚原の顔色が、一気に青ざめる。コウキの顔とリーダー格の男の顔を何度も見比べた後、コウキへ声をかけてきた。
「ちょ、ちょっと、どうするのよ!」
「ふん、なら、放してやる――――よ!」
その言葉とともに、塚原の手を放した男のこぶしが、コウキの顔面を狙う。力を込め、勢いを増したその裏拳を、コウキは何気なく下げた頭で、自然体のまま避けた。
体を開いた相手の身体に、そっと手を添える。次の瞬間、体重と共に両手を思いっきり、突き飛ばした。
突き飛ばされた男が、自分の原付にぶつかるよりも早く、そちらの方に視線を向けた相手の前に体を滑り込ませ、相手をにらみあげる。
だらん、と伸ばした腕をとると同時にひねり上げ、ひじの裏側を思いっきり伸ばす。
「イデデデデデデデッ!?」
痛みで声を上げた仲間との間にそいつを動かし、ほかの四人と距離をとる。
人質がとられたのを察したのか、四人が動こうとするが、今のコウキの行動を見て、動きを止めた。手馴れている、と感じたのだろう。
コウキ自身は喧嘩慣れしているとはいえ、弘毅自身は未熟だ。ここで誰かに捕まってしまえば、勝てる道理などない。
しかし、喧嘩というのは得てして、ためらわない方が勝つものである。それでも数の利は相手にあるので、油断はできない。
―――――ただ、それはコウキの杞憂に終わった。一連の流れで二人を制したコウキを警戒しているようで、襲いかかってこようとはしなかった。
それなりに締め上げ、相手の腰を蹴り、一団と距離を空ける。ぽかんとしている塚原の腕を引っ張り、自分の後ろに送ると、コウキは口を開いた。
「ま、互いに手打ちにしようぜ? これ以上やると、周りが騒がしくなるだろうし」
コウキの言葉に、不良集団は辺りに視線を向けた。
そこで初めて、自分達が来ていた野次馬に囲まれていることに気が付いたのか、目を反転させている。その周りの視線は明らかに不良軍団を責めており、先ほどまで騒いでいた集団が慄いた。
「くそッ! 覚えてろよ!」
「おお、初めて聞いたよ、その言葉」
騒がしく出ていく不良集団を見送った後、コウキはようやく一息ついた。あたりにいる人々に感謝を述べた後、いまだに呆然としている塚原へ、視線を向けた。
「あ~、大丈夫か? 怪我とかは?」
「あ………うん、大丈夫」
茫然自失といった様子で見ていた塚原は、コウキの問いかけにそう答える。それを聞いて、一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたコウキだったが、『弘毅』の記憶ではあまり親しくない様子だったので、深く追及することはしないことにした。
コウキは、軽く手を上げると、言葉をかけた。
「んじゃ、塚原さん。気を付けて帰ってくれよ」
そういってその場を離れようとするコウキの手を、誰かがとった。
コウキの手を取ったのは、塚原であった。彼女は、コウキが振り返った後、その視線にちょっと戸惑った様子を見せた。
「ま、まだ感謝もしてないじゃない。………あ、ありがと」
その言葉に、コウキは目をぱちくりさせるのであった。
弘毅の記憶では、この塚原という少女は陸上競技をすることを命題にしているような少女で、仲が悪かったはずだ。
弱弱しい男なんかよりもよっぽど男らしい彼女ではあるが、髪は長めで今はポニーテールにしている。おしゃれに興味がないわけではないそうだ。
(っていうか、弘毅のやつ、彼女のこと知りすぎだろ。何? ストーカーなの?)
いわゆる幼馴染という関係らしいが、コウキ自身が弘毅を信用できない。
少し移動して、塚原はコウキへ声をかけてきた。
「最近、アンタが走っているのを見かけるけど、何? 何する気なの?」
「何する気って――――」
塚原にそういわれ、コウキは言葉を亡くした。
最初は、弘毅の考え方が気に入らないので改変してやろう、という考えであった。今もその思いは変わっていない。
どちらかといえば、目的が変わっている、というべきだろうか。自分の中にある『自分』と『弘毅』との差を消すために頑張っているのだ。
それを、どうやって他人に説明するか。コウキが難しい顔をしているのは、そういう事だ。
ややあって、答えた。
「あ~。俺にも尊敬する人がいるわけで。ほら、俺って友達居ないじゃん? だから、夏休みデビューしようかなってな?」
尊敬する人っていうのが『自分』だという事に気づき、少しだけ顔を赤くして答えるコウキ。
それを聞いた塚原は、「ふぅん」と少し白い目で、うなずいていた。両手を前に組みながら、深く考え込むように眉間に眉を寄せる。
「最近、お母さんが言うのよ。アンタの家がきれいになったって。あれもアンタがやったんでしょ?」
「あ? ああ、そんな難しくはないぞ? ほら、今はインターネットとかあるし、それに、汚いのを放っておくわけにもいかないだろ」
コウキの言葉に、塚原の視線が露骨にこわばった。怪訝というよりは、理解不可能な存在を目の前にすれば、こんな視線を向けてくるかもしれない。
さらに何か聞こうとする塚原を、手で遮った。
「まぁ、俺の事はこれからの事で評価してくれ。とにかく、お前も自主練だろ? 熱中症にならないように頑張れよ」
そそくさと、コウキは塚原から離れる。
その背中には、見えなくなるまでずっと視線を感じているのであった。
それから、毎日、コウキは相も変わらず生まれ変わったように行動した。勉強をきちんと終え、体を鍛え直し、それと同じぐらいに家族を中心に遊んだ。
弘毅自身、友人がいなかったようで遊びに誘われるということはなかったが、コウキ自身の好奇心旺盛な性格により、ほとんどを外で過ごすことになった。
それにより、家はごみ屋敷だった面影が一つもなくなり、庭先も整備され、誰を呼んでも恥ずかしくない家へとなった。
そして、コウキ自身は、一回り体が膨らみ、白が強かった肌も血色のいい肌色に焼けた。おそらく、夏休みが始まる前のコウキを見ていた人間は、同一人物とは思えないほどの変化だろう。
それは、コウキが適当な運動と適切な食事、規則がそれなりに正しい生活と、高校生独自の成長期による変化。
本当の生活は、二学期から始まるのだった。
夏休み編、終了。
主人公がやっていたのは夏休みの宿題と肉体改造、そして料理の練習だけです。
友達がいないのでボッチ。リア充ではないですね(笑)
さて、次からは学校編になります。どうぞお楽しみに。