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第一章 変化

こんな話の始まりです。





「おう、お帰り。妹よ」

 一瞬、誰か分からなかった。

 適当に選んだ、というメガネをかけているから辛うじて分かるものの、半袖に少し細めの身体、そしてジーパンと頭に巻いたタオルが、いつもの兄の風貌から考えられない格好だったのだ。

 兄―――弘毅は、私に声を掛けると、ちょっと待て、と手で制した。

 足元にあるダンボールには、弘毅の大切にしていたフィギュアや雑誌の類。其れを丁寧に梱包している業者の横で、恰幅のいいおじさんが陽気に笑った。

「はっはっは。これほどのコレクション、めったに見れないよ。でもいいのかい? 本当に売って?」

 売る? 何を?

 ――――兄が、自分の人形を? 

 其の言葉は、信じられなかった。弘毅がこの趣味に没頭し始めた当初、誤って人形の頭を壊した時、初めて聞くような怒声で、木片片手に襲い掛かってきたのだ。

 それを、売る? なぜか三つも買ってくる兄が、売ったと言うのか?

「ああ、いいっす。もうどうせ、使わないですし」

 使わない? 使わないといったのか? どうやって使うんだ?

使い方は分からないが、どちらにしても手放すことには変わりない。

 と言う事は、兄は―――――。

「そうかい。………んじゃ、合計で23万に色つけて、24万で引き取ろう」

 其の言葉に、私は仰天し、兄は適当に頷いた。書類に署名をすると、現金をそのまま預かったようだ。

 業者は其の後、荷物を片付けると、そのまま去っていった。

 私は、一連の出来事に呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。



(思ったよりも金になったなぁ)

 日本経済って凄いな、などと思いながら、コウキは手元にある札束を数えた。確かに二十四枚あることを確認すると、しみじみと視線を上にあげる。

 視界に移るのは、一般住宅である『弘毅』の家。ローンは払い終わっている上、二回に部屋が四つ、バルコニー、一階にリビングキッチン、二つの和室がある、新築二年と良物件のそこは、当初、文字通りゴミ屋敷だった。


 ゴミ屋敷。


 入り口の近くまで散らかる衣服に資料、本とゴミ袋。入った瞬間、コウキは一瞬我を失ったのは秘密だった。

 しかし、コウキの意思は、萎えなかった。家に帰った夕方から今に至るまで、ずっと掃除をしていたのだ。

 衣類は綺麗に畳み、段ボールに詰める。可燃ごみはビニールに入れ、不燃ごみや資源ごみも分けていく。

 掃除をしていない、というのはひどい話だが、記憶を思い返せば、当然の内容だった。

 片親で、夜遅くまで仕事をしている母親に、手伝わない長男。長女は友達の家に遊びに行き、いちばん小さい次女はテレビの前で母親の帰りを待つ。

妹二人が友達の家に泊まりに行っているという状態でなければ、丸一日掃除をするという修羅場は、出来なかったに違いない。

 昨日の夕方、ひたすらゴミの分別をしながら、自分の部屋にたどり着いたときの光景は、今でも思い出せる。

 全方位にあるメタルラックに、敷き詰められるように置いてある人形と、同じような本。友人が持っていたのをコウキは見たことがあったが、流石にこれは、引いた。

 なので、携帯に入っていたショップに交渉し、全部買い取ってもらうことになったのだ。

 予想以上の値段になったのは驚きだが、実際にお小遣いで買える量でも、値段でもないそれらを、高校生の弘毅が持っていたのだ。

 つまり、親に丸ごと負担をかけていたという事実。それが、嫌だった。

 しかし、一日の大掃除の甲斐も在ってか、ゴミの分別と洗濯物の分別は、終えた。流石にカビが発生しているところや汚れが酷いところは後回しだが、それでも綺麗になったはずだ。

 しみじみと頷いている体は、実をいうとすでにかなりの筋肉痛だった。喧嘩どころか運動もろくにしていない『弘毅』の身体は、悲鳴をあげているのだ。

(『弘毅』は部屋片付けて無いし、汚いし、掃除が大変だったなぁ)

 幸い、明日が燃えるゴミの日という事で、部屋だけではなく家の中のゴミを全て一掃した。

 勿論、明日の朝ゴミ捨て場に持って行くので庭先に置いてあるが、分別は完璧だ。わざわざ、市で使われる分別袋を買いに行ったのである。

 独身生活が長いので、掃除や洗濯はお手の物だったが、予想以上に『弘毅』の身体が弱くて、苦戦してしまったものだ。本を持ち上げるのにも、腰を入れないとできないのである。

 髪を押さえていたタオルを、解くと、ばさりと視界を黒が覆った。とりあえず用意したこのお金で、髪の毛と衣類、メガネを新調しなければならない。

「こ、弘毅?」

「む」

 そういえば、妹――カグヤは、兄である『弘毅』を名前で呼び捨てにしていた。

少し前までは仲が良かったようだが、仲たがいしてからと言うもの、冷めた関係になっているらしい。

 コウキ――紛らわしいから、自分のときはカタカナで―――は、改めて妹であるカグヤに視線を向けた。

 ショートヘヤーに、嫌そうな表情を浮かべている少女。見た感じではかわいいほうに入るのだが、『弘毅』の見方では『不細工でムカつく妹』、らしい。

 だが、コウキには関係なかった。

「俺もそろそろこんな調子じゃいけないと思ってな。色々と、迷惑をかけた」

「うえ!?」

 素っ頓狂な声をあげるカグヤに、コウキは不敵な微笑みを浮かべる。とりあえず、大量のお金をポケットに突っ込むと、入り口に置いておいたバックを背負い、入り口に止めてある自転車に跨ると、口を開いた。

「と言うわけで、ちょっと出かけてくるからな。いい子でお留守番しているんだぞ~~」

 そのまま、コウキが見えなくなるまで、彼女は動けなかった。





「ありがとうございましたぁ♪」

 カランカラン。

 商店街の一角、扉についている鈴が鳴ると同時に、頭を触っているコウキが出てきた。ようやく軽くなった頭に、鼻歌も出そうになる。

(やっぱ、短髪じゃないとな)

 今の髪型は、額が全部出るほど短く切っている。柔らかい髪質なのか、髪の毛が立って風になびいていた。とても頭が軽く、生まれ変わったような気がする。

 それだけで、雰囲気が変わるのだ。全部同じ長さで、好き放題のばしていたから坊ちゃん髪になっていたのだから、雰囲気が変わるのも当然だった。

 そのまま、商店街の眼鏡屋に入る。即日にできると言う看板のうたい文句に惹かれたのだが、中に入って思わず感嘆の声をあげた。

「いらっしゃいませ」

 落ち着いた、モダンの雰囲気。生まれて初めて(前の状態からだ)眼鏡屋に入ったコウキは、歩み寄ってきた店員に一つ頭を下げると、自分のメガネを外しながら、口を開いた。

「あの、運動しやすいメガネが欲しいんですが、ありますか? あ、最悪、コンタクトでもいいです」

 コウキが外したのは、昭和のおじいさんがつけているような、大きなメガネ。最初に見た時、コウキ自身も驚いたのだが、店員は驚くこともなく、しかも無茶な注文に顔色一つも変えずに答えた。

「でしたら、こちらのメガネは如何でしょうか?」

 そういい、入り口近くにあるテーブルへ、コウキを誘う。そこにおいてあるのは、サングラスのような流線形を描くメガネが、スポーツマンの写真と共に並べられていた。

「最新型のモデルで、スポーツ選手が使用できるように作られていますよ」

 掛けてみるが、サングラスの印象が拭えない。嫌いではないのだが、流石に学校生活では目立つだろう。

 それ以外のスポーツに耐えられるメガネも、置いてあった。片っ端から試着するが、どうも納得できなかった。

「あ、いや、流石にもうちょっと普通の奴で。あ、あと、出来れば丈夫な奴がいいです」

「でしたら、こちらのものは如何でしょうか」

 そういい、店員が持ってきたのは、細身のフレームが着いたメガネだった。メガネの脚が左右に開く上、ある程度の歪みなら力で直せると言うそれは、コウキの求めていたメガネだった。

「じゃあ、これがいいです」

「はい。でしたら、こちらで視力を測りますので、どうぞ」

 そういい、コウキは店の奥に入っていった。

 一時間もしないうちに、コウキは店を出ていた。

「最近の眼鏡屋はすごいなぁ。其の日のうちに出来ちまうんだから」

 別段乱視も入っていないコウキのメガネは、視力検査から四十分後に渡された。度数が軽いのも、理由かもしれない。

 新しいメガネをかけたコウキは、すでに面影もない。身体がヒョロヒョロなのは変わらないが、ジーパンにTシャツ、そして細身のメガネとさっぱりとした髪型は、まず『堤森 弘毅』と分からないだろう。

 そのほかにも、ランニングシューズにサウナスーツ、MPプレーヤーなどを買ったコウキは、残ったお金を小さめの鞄に入れる。肩に担ぐ、小さなこの鞄も、残ったお金で買ったものだ。

 しかし、記憶が戻るごとに、『弘毅』がどれだけ嫌な相手か、わかった。

 別に二次元に逃げても構わないのだが、現実世界では母親に暴言を吐き、外では全てを見下したように物事を見て、何の行動も起さない。

 そんな、日和見な性格だった。いや、日和見と言う言葉すら、生温かった。

「十円稼ぐのに、どれだけ大変か、分かってないんだよな」

 コウキの最初の給料は、時給制だった。時給十円アップするのに半年以上、一生懸命働いて、それでもあげてもらえなかったのだ。それから五ヶ月して、ようやく時給が上がった時は、本当に嬉しかったものだ。

 そんなことを考え、自転車を押しながら、『見慣れた』街並みを、歩く。ひょろっとした腕は、喧嘩と昨日からずっとしていた掃除で軋み、悲鳴をあげていた。

(もともとの身体が弱いくせに、怠けてるからだよ、たく)

 辟易したようにため息を吐きながら、コウキは辺りを見渡した。どこかで御飯でも食べていこうか、とも思ったけども、妹のカグヤも、もう一人のミソラも、御飯に悩んでいるのではないだろうか? と考え、材料だけに留める事とした。

「さて、んじゃ、晩御飯の材料でも買って、帰ろうかな」

 本物ではないが、自分の手料理がどんなものか、ひとりの母親と二人の妹に、見てもらいたかったのだ。

 そう、これから始まるのは、真・生活なのだから。




 堤森 ミソラは、自分の兄のことが大好きだった。

 やんわりとした赤毛を背中の中心ほどまで伸ばし、伏せ目がちな眼差しと、胸に抱く大きめのウサギの人形が、陰湿な雰囲気を出している。そんな外見をしているのが、ミソラだった。

 悲観的な雰囲気を持つ彼女は、帰路をゆっくり、歩いていた。

 小学校三年生になったミソラは、外から見たら随分と人見知りで、引っ込み思案な彼女だったが、以前はかなりのお兄ちゃんっ子だった。

 弘毅自身もミソラには心を開いており、ミソラも弘毅が好きで、いつも後ろを歩いていた。人見知りのミソラは、弘毅を通じて何とか人の輪に入ることが出来ていたぐらいだ。

 しかし、高校校に上がったぐらいで回りから茶化されるのを嫌った弘毅が冷たく当たり、唯一の心のありどころを失った彼女は、心を閉ざすこととなる。

 親友である根本 結の家に泊まりに行っていた彼女は、とぼとぼと、小さな歩幅で歩いていた。

 帰っても、自分は一人だった。姉であるカグヤや母親であるさやかは相手をしてくれるが、兄である弘毅は、自分を鬱陶しく思っているのが、嫌だった。

 何時から、兄に嫌われたのか―――其れを考えると、胸が締め付けられる。自分は前のように兄が好きなのに、冷たい眼で、見られるのだ。

 なのに、今は、名前すらろくに呼んでくれない。リビングのソファーの横に座ると、露骨に嫌そうな顔をして2階に上がって行ってしまうのだ。

 兄に貰った、大切なウサギの人形を、強く抱きしめる。帰るのが嫌になったミソラが、家に向かう曲がり角を曲がった時だった。

「おう、お帰り」

 見知らぬ男の人に、声を掛けられたのだ。

 ―――そう考えたのは、ほんの一瞬。

「おにい、ちゃん?」

「お、おう。 そ、それ以外に何に見えんだ?」

 そこに立っていたのは、タオルを頭に巻いて、ゴミ捨て場に三つのゴミ袋を重ねている兄の姿だった。少しだけ、挙動不審な行動もとっている。

 短髪に動きやすそうな服装と、様相は変わっているが、間違いなく『弘毅』だった。

 キョトン、と眼を点にしているミソラへ、ゴミ袋を覆うネットをかけた弘毅が、頭のタオルを取り、手を拭きながら声をかけた。

「お帰り、と。友達の家に泊まりに行っていたんだっけ?」

「う、うん」

 気圧されながらも、歩み寄ってくる弘毅に、ミソラが身体を恐縮させた。しかし、弘毅は気にせず近付くと、ミソラの頭にポンと手を置くと、頭をかきながら口を開いた。

「あ~、御飯は食べてきたのか? 夕飯を用意しといたんだけど」

「………な、なんにも食べてない、よ?」

 戸惑いながらも言葉を返すミソラに、ホッとした様子の弘毅―――コウキ。眼をぱちくりさせているミソラを連れて歩き出した。

 そして、ミソラは家について二度目の驚きを、覚えた。

「………綺麗」

 家が、綺麗になっていたのだ。

 自分の家は、汚れている。他の家に遊びに行ったとき、我が家がどれほど酷い状況かということは、ミソラもおぼろげながら、理解していた。

 しかし、そうなっている理由も、知っている。母親であるさやかは、めったに帰ってこなく、掃除をしようにも出来ないのだ。

 ミソラも、掃除の方法を知っていても、出来なかった。其れはひとえに、体力が追いつかないのと、「やっていいのか?」という根本的な恐怖心が、心を占めていたからだ。

 以前、兄の部屋の掃除を手伝おうとして叩かれたのが、トラウマなのだ。

 ポカンとしていると、声が上から響く。

「一応、家の掃除はしたけど、ミソラの部屋は入ってないから安心してくれよ」

 門前で立ち尽くすミソラに、弘毅がポンポンと頭を叩きながら、家の扉へ歩いて行く。頭を軽く撫でられたミソラは、しばらく呆然としていた。

 入り口でしばらく待っていた弘毅が、後ろから歩いてこない妹に怪訝な表情を見せたとき。

 ミソラの手から、何かが落ちた。

 それは、彼女が大切にしている人形。目の前の大好きだった兄から貰った、大切な人形。

 それが、地面に落ちて―――――

「―――ふぇ、ふえええぇぇぇっ!」

「お、おい! なに突然泣き出してんだ!? ミソラ!」

 大慌てで駆け寄ってくる弘樹との距離と反比例して、声はどんどん大きくなっていく。

 ミソラ―――弘毅のその言葉に、ミソラの心は大きく揺れ動かされた。その衝動に従うように、駆け寄ってきた兄の身体へ、飛び込む。

 ギュッと、力強く抱きつく。声を隠すつもりも、辞める気もなかった。

いつもなら怒鳴り、振り払われてしまう行動だった。そして、今回も兄の手は、自分の手を振り払う。

 悲しみが、涙と声を押しとめる。一瞬だけ感じた前の兄の優しさが、まやかしだとさえ思ってしまった。

 しかし、違っていた。

 弘毅は静かに脚を折ると、そっとミソラの体を抱きしめた。

「よしよし、何かあったのか? お兄ちゃんに話してみな?」

 弘毅が、自分の名前を呼んだ瞬間、もう駄目だった。

 ただひたすら、泣き続ける事しかできなかった。




 さやかが仕事場を出たのは、七時を回った頃だった。家に着くのは一時間後の八時で、その道中の気持ちは重かった。

「はぁ………」

 運ぶ足が、嫌に重い。昨日は宿直室に止まったが、流石に二日も泊り込むわけには行かず、帰らなければならなくなったのだ。

 後で片付けようと思って増え続けたゴミと、どう接すれば良いのかわからない子供達の待つ、我が家。

 勿論、子供たちのことが嫌いと言うわけではないし、好きなのだが、仕事を優先しているうちに、溝が深く、修復不能な状態になっていたのだ。

 少しでも近付こうと、帰りにスーパーで御飯の材料を買って帰ろうかとも思ったが、流石に食指が動かず、止めた。

 帰って食事を作るのは、苦労ではない。相手の男と別れたときから覚悟していたし、苦労と思ったこともないはずだ。

 ただ、辛かった。顔を合わせてくれない我が長男に、どうして分かり合えないのか、分からなかったのだ。

 それは、寂しい思いをさせたことも在った。せめてもの罪滅ぼしに、と好きな事に出来る限りの援助はしたが、其れは家計を圧迫し、精神を追い詰めて行った。

 仕事をしているときのほうが、まだ気が楽だった。集中している時は家のことを忘れられるし、仕事をしているということ自体が、免罪符に思えたのだ。

 しかし、終わりは必ず、来た。ため息混じりに、家の玄関を潜ると――――。

「あら、何してるの? カグヤ?」

 入り口で、ぼうっと立ち尽くしている愛娘の姿を、認めた。

 カグヤは、少しだけ素行が悪いこともあるけど、まだ可愛い娘だった。出かけた帰りだったのか、いつもよりも砕けた服装で立ち尽くす彼女の先には――――。



「ああ、お帰り。母さん」



 知らない男の子が、エプロン姿で掃除機を掛けながら、立っていた。

 否、知らないわけがない。掃除機をかけているのは、間違いなく長男である弘毅だった。

「こう、き?」

「………ん? あ、うん。どうかした?」

 事も無げに返してきたのは、弘毅らしき人物からだった。嫌に長い髪の毛は綺麗に切り揃えられ、太い眼鏡は細い眼鏡に変わっていたのだ。

 さすがに、自分の子供の事ぐらいは分かる。育ててきたのも、生んだのも自分だ。

「とりあえず座ってくれ。今、晩御飯を用意するから」

 しかし、目の前の弘毅は、生まれて始めてみた。

 家の間取りは、一階が2LDK。リビングとダイニングがある、カウンターキッチンという造りだが、家に居る時間が少ないのでかなり荒れていたはずだ。

 しかし今は、食器は綺麗に食器棚にしまってあり、食材は冷蔵庫へ、お菓子は戸棚にと、綺麗に整理整頓されていた。

 それだけではなく、美味しそうな料理の匂いが、キッチンに充満していた。それだけではなく、どこか埃っぽかった家の中が、全体的に片付いていたのだ。

「ささ、座ってくれ。あ、母さん、スーツの上、預かるよ」

「あ、うん。ありがとう………」

 おずおずと上着を脱いで渡すさやかに、其れを受け取ってすぐにハンガーへ掛けて、クローゼットに持って行く弘毅。

 その姿が消えた瞬間、さやかはカグヤの横の椅子に慌てた様子で座り、小さな声で叫んだ。

「か、カグヤ! コ、弘毅は如何しちゃったの!?」

「わ、わかんないよ! 私だって混乱してるんだから!」

 混乱するのも仕方がない。昨日まで自分のことすらろくにやらなかったコウキらしき人物が、家の掃除を全部やった挙句、料理まで作って、しかも気が効いているのだ。

 普通では、ない。状況が、全てが、おかしい。

 そんな風に戸惑っている中、コウキが戻ってきた。コウキが戻ってきた瞬間、二人は慌てて体勢を立て直し、座りなおす。

「?」

 怪訝な表情を浮かべた弘毅は、それでも何も言わず、二人とは反対側のテーブルの席に座り、何かをさやかへ、差し出した。

 封筒。怪訝な表情を浮かべるさやかに、弘毅は静かにダイニングとリビングの間に、正座した。

 そして、ゆっくりと両手を地面につけると、頭を垂れた。

「迷惑をかけてすみませんでした」

 土下座。オタクで引きこもりに近い生活を始めていた弘毅が、見た目を変えて、家をとことん掃除して、晩御飯も用意しているというのだ。

 そして、無駄に高い自尊心を持っていた弘毅が、頭を下げているという事実。

どちらもありえない事実が、目の前にある―――其れが異様でなければ、なんというのだろうか。

 さやかは眼を見開いて驚き、カグヤは青ざめている。

 以前、小説やら漫画やらに感化されて行動したこともあった弘毅を、一番見ているさやかにしては信じられないが、雰囲気が違う。

 カグヤはさやかよりも長い時間それに当てられており、凄まじいまでに狼狽している証拠とも取れた。

「ちょ、ちょっと、弘毅! な、何かあったの?」

 さやかが慌てた様子で駆け寄り、弘毅に手を伸ばす。

 弘毅は、その伸ばした手を、両手で掴んだ。ひっと軽く悲鳴をあげてしまったさやかを気にした様子もなく、弘毅は眼を閉じながら答えた。

「信じられないのも無理が無いと思う。それだけ、今までのこ――俺は、本当に情けない奴だと思う。だけど、一度だけ、チャンスが欲しい」

 きりっと、弘毅の目が釣りあがる。間近で見ていたさやかが驚く中でも、弘毅は力強い表情で、告げた。

「お願いします」

 その弘毅の言葉に、今度こそさやかは、言葉を失った。

少なくとも目の前の弘毅は、情けない話だが、ゴミ屋敷にしてしまった自分がすべき事を、全てしていてくれた。面倒くさいと思ってやめてしまった料理ですら、用意していてくれているのだ。

 人間がそう早く変われるわけがない、と言うことを、さやかは知っている。しかし、そのさやかでも、今の弘毅を推し量る事は出来なかった。

 弘毅の握る手を、少しだけ握り返した時だった。

 カラカラという軽い音と共に、廊下からリビングに入る扉が、開いた。

「………お母さん? お姉ちゃん?」

 そこから出てきたのは、いつも愛用のウサギの人形を胸に抱いた、パジャマ姿のミソラだった。眠そうにパジャマの裾で眼を擦りながら歩いてきたミソラに、弘毅が反応した。

「お、起きたか? 母さん、まず御飯にしないか?」

「あ? え、ええ、そうね」

 ミソラを迎え入れて、晩御飯が始まった。




「美味しい………」

 そう漏らしたのは、さやかだった。用意されていたのは、揚げ湯葉の味噌汁に鮭のレモンバターソテー、そして冷奴だった。豆腐が主流だが、真夏の夜に食べるもので良質なたんぱく質が取れるメニューだ。

 湯葉の味噌汁自体はじめて飲むものだったが、実に合っていた。湯葉と言えば、わさび醤油をつけて食べる生湯葉しか知らなかったカグヤには、衝撃的なものだった。

 とはいえ、目の前の光景ほど、衝撃的なものは無い。

「ほらほら、ミソラ。骨ぐらいとってあげるから。遠慮なんかするなよ」

 そういい、隣に座るミソラから鮭を預かると、手馴れた様子で骨をとって行く、兄の姿が目の前にあるのだ。

 自分が正気で記憶が正しければ、弘毅は人に茶化されるのが嫌で、ミソラから距離を取っていたはずだ。ここから半身も見えない、幼い妹はおずおずと弘毅の方を見上げると、少しだけ嬉しそうに微笑んでいた。

 ミソラ自身は、コウキのことが好きだ。自分も昔同じ感情を抱いていたが、成長するというのは淋しいもので、今では嫌悪感しか浮かばない。

 その当人は、箸で綺麗に骨だけとると、ミソラに戻す。

「―――ありがとう、お兄ちゃん♪」

「なぁに、良いって事よ」

 そう笑い返す兄は、本物だろうか?

 ふと、そう思ってしまうが、本気で疑う必要があるのではないだろうか。例えば、兄そっくりの人が兄と入れ替わって、今此処にいるのではないだろうか?

 ――――なんの為に?

 利点がこれほどまでに思いつかない入れ替わりが、あるだろうか。それは、確かにお金はそれなりにあるだろうが、回りの評判は最悪、本人の評判は奈落の底にある兄に変わっても、利点以上に欠点が多いだろう。

 というか、利点がない。

 と言うわけで、というか、声も同じという時点で、それはありえない訳だ。

 ―――頭を打って、本当に変わってしまった?

 ありえ、る? 一番可能性が高いのがそれだけども、実際の所、其れだったらこんな状況に成り得ない。兄は、料理など出来ないのだから。

 そんな、思考の無限回廊に迷い込んだ、その時だった。

「カグヤ」

 不意に、兄から声を掛けられた。唐突過ぎる上、本当に不意を付かれたので、「ふえっ!?」と言ってしまった自分は、悪くないはずだ。

 いつもとは違う兄の視線が、突き刺さる。少しだけ眉を潜めた様子で、口を開いた。

「あんまり箸が進んでいないようだけど、不味いか?」

「え?」

 その言葉に、自分の手元に視線を落とす。思考していた所為で動きを止めていたのか、余り食は進んでいるようではなかった。

「いや、そんなこと無いよ。うん」

 そういい、一旦思考を切って、カグヤは御飯を口に搔きこんだ。

 どちらにしろ、兄の変貌は、長くは続かない。もっても一ヶ月だろう、と今までの経験から、そう結論付ける。

 そしてその結論は、思いっきり裏切られることとなった。まるで、今までの生活が嘘だったかのように。

 生活が、変化したのだ。





「さて、コーヒーは何がいい? ブラック?」

「え、ええ」

 食事が終わり、ふらふらとした足取りでカグヤが部屋に戻って行くのを横目で見ながら、さやかは状況を整理していた。

 ミソラは、いつもどおりリビングのソファーに座って、テレビを見ている。いつもよりも元気で、嬉しそうなのはいいことだが、さやかにとっては、混乱する要素しかない。

 弘毅が変わった。それだけは、分かる。前にも何度か変わった事はあったが、此処まで根本的に変わったことなど、なかった。

 料理も、そうだ。温かく、他人の作った料理など久しく食していない自分には、かなりの衝撃があった。美味しすぎて、心の中で泣いていた位だ。

 その弘毅は、インスタントコーヒーを淹れると、テーブルの自分の前に、コトッと置いた。自分用のコーヒーは用意している様子はなく、その代わりに、茶封筒が在った。

 結構な厚みのある、その封筒。さっき、余りの弘樹の変貌振りに受け取れなかった封筒が、そこに在ったのだ。

 弘毅は自分の対面に座ると、スッと、其れを差し出してきた。

 怪訝な表情を浮かべるさやかに、弘毅はただ、頷く。其れを見て、封筒を開いた先には――――。

「お金!?」

 かなりの厚みの在る、一万円札。それに驚くさやかに、弘毅は自身を悔やむような表情を浮かべながら、告げた。

「俺の集めていた人形を、まとめて売ったお金、なんだ。全部、元の金額を返す事は、今は出来ないけど、返しておくよ」

 そういい、弘毅はゆっくりと、さやかに視線を向けた。そして、その口が、やわらかく動く。

「母さんが大変なのは、分かってる。家の事は任せてくれ。これから俺は変わる、変わりたいんだ!」

 力強く、断言する我が息子。ほんの数時間前に、想像すら出来ないその光景と、今の状況に―――――。

「――――ッ!」

 さやかはもう、限界だった。勢い良く立ち上がると、椅子が倒れるのもお構い無しに、自分の息子を、抱きしめた。

 大きな音を立てる、椅子。しっかりとした体温を持つ弘毅を抱きしめながら、さやかはもはや、言葉も持てなかった。

 驚いた弘毅は、すでに身体を硬直させて動いていない。

「お母さん、如何したの? ………何で泣いてるの?」

 椅子の音に驚いて、様子を窺っていたミソラが、おずおずと言った表情で、弘毅の肩に乗っているさやかの顔を、覗き込む。泣いているさやかに不安そうな表情をむけるミソラも、さやかは抱きしめた。

 万感の思いを込めて、さやかは抱きしめる。そのまま、口を開いた。

「お母さん、頑張るからね………ッ!」

 此処まで変わった息子に、言うことなど無い。やるべき事は、その息子が決めたことを、精一杯手伝うのみ。

 さやかは、久し振りに泣き疲れるまで泣いたのだった。





 一階の和室にあるさやかの部屋に、泣きつかれた母親を寝かすと、コウキはようやく、息を吐いた。

 騙しているようで気はよくないが、個人的に現状維持は嫌だった。どのぐらい長くなるか、戻れるかも分からない今の状況なら、変化をさせるのは、悪くないはずである。

 流石に非力な弘毅の身体では、それなりに大変だったが、母親であるさやかは、嬉しそうだった。カグヤには若干警戒されているようだったが、そこは今後、改善していけばいい。

「お兄ちゃん………」

 急に母親に抱きしめられて、そして泣きつかれ、そのまま眠ってしまう、という彼女にとっては異常な状況に混乱している様子のミソラ。

 その頭に手を置き、苦笑する。力強く彼女の頭を撫で付けると、「よし!」と両手を叩きつけると、告げた。

「んじゃ、勉強でもすっか!」

「――――うん!」

 髪の毛をくしゃくしゃにしながらも、嬉しそうに返事するミソラへ、コウキも微笑を返した。

 そして、早めに終わらすために、妹と共に、リビングで夏休みの宿題を、進めるのであった。





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