プロローグ
『堤森 さやか』は、いわゆるキャリアウーマンと呼ばれる人だった。
もうすぐ三十を迎える齢にして、三人の子供を持つ彼女は、責任感だけで子供を育て上げてきた。
愛情は、勿論ある。しかし長男は自分の愛情に答えてくれず、怠惰的に過ごしていた。
世間体も、ある。それでも可愛い我が子のため、と粉骨砕身働き続けていた。
「松本君。ちょっといいかしら」
細い眼鏡を軽く押し上げ、スーツに身を包んだ肢体を軽くゆする。体勢を正したさやかは、部長席から部下である松本を呼び出した。
青空とビル街を見下ろす、ガラス張りの広いオフィスを小分けした、仕事場。主に広告事業を主とする其の会社の営業推進部の部長に、さやかは就任していた。
呼び出された松本と言う男は、完全に萎縮してしまった。その表情は固く、嫌そうな色をどうにか隠そうとしている感じだった。
さやかは、凛々しい顔を僅かにゆがめると、いらだつように告げた。
「この企画は、本気で考えているの?」
「は、はぁ」
さやかの言葉に、怖気ついたように松本が言葉を返す。しかし、それがさやかの苛立ちを、強めた。
「はぁ、じゃないでしょう!? しっかりしなさい! 少なくとも予算内に納めなさいと、何回言ったら分かるの!?」
怒鳴りつけられ、松本が肩を竦めあげた。脅えきった表情を浮かべる松本に、さやかはさらに言葉を続けた。
「わかったらやる! いい加減にしなさい!」
今日も、望んで残業をしようと、さやかは決めていた。
夏休みが始まる夜、私は友達の部屋に遊びに行って、結局帰ってこられなかった。帰そうとしなかったし、あの兄がいる家に、帰ろうとは思えなかった。
一言で言うと、気持ち悪い。
部屋に篭りっぱなしだし、ご飯だって居間にすら降りてこない。一度部屋を覗いた時には、気持ち悪いぐらいにたくさんの人形に、キャラクターを彩ったポスターや本など、嫌なもの以外の何物でもなかった。
帰るのだって、億劫だった。だから、お昼を過ぎるまで、家に帰れなかったのだ。
お母さんは、仕事で帰りが遅い。あの家にあの兄と一緒だと思うだけで、嫌だった。
なのに、だ。
家の入り口には、大きなトラックが止まっており、入り口にはたくさんの荷物とダンボール、そして何か記帳を書いている業者と、一人の男が立っていた。
それが、自分の兄だと気付いた時は、世界が反転していた。
『堤森 カグヤ』は、そのまま、立ち尽くすことしか出来なかった。
この物語は、少し遡ったところから、始まる。
眼が覚めた瞬間、知ったのは知らない空気だった。
(?)
身体が、嫌に痛い。その痛みに眼を細めながら立ち上がると、不穏な気配が真後ろから感じられた。
(………あれ? たしか、飲み物を買おうとして、販売機の前に立って………)
毎朝の習慣で何かを飲もうとしたのは覚えているのだが、その先が思い出せない。靄がかかったように思い出される記憶は、倒れてきた販売機だった。
(あ、もしかして、記憶喪失?)
思い出せば、誰かが大きな声を出して、振り返ったときに世界が黒くなっていったような気がした。
真っ白な背景の中、徐々に狭まって行く黒い視界を思い出していた、その時だった。
「おい、まだやるのかよ」
その声に、ようやく彼は顔をあげ、周りを見渡した。コンクリートの高い壁と、これまたコンクリート製の背の低い建物に三方を囲まれたそこは、日陰特有の湿っぽい空気と真夏特有の草木が萌えるにおいが充満していた。
ゆっくりと、振り返る。その視線の先には、三人の男の姿が在り、一人、女の子がいた。
「………あ?」
意味が、分からない。
見たところ、高校生ぐらいの男達だろうか。三人がそれぞれ女の子を囲んでいるところを見ると、襲っているような印象を受けた。
いや、襲っているのだろう。場所は暗がりで、二人の男達は妙に衣類をだらしなく着ているし、髪の毛を染めても、いた。いわゆる、不良だ。
何故、自分が此処にいるのか? 今、いったい、どういう現状なのか? 分からない事だらけだったが、気にしないことにした。もとより頭の悪い性分ゆえ、深く考えることもせずに、行動に移し始めていた。
流石に、見逃せない。振り返ろうとして、自分の身体が嫌に遅いことに気がついた。
「あれ? ………は?」
手を掴んで、驚く。
腕が、細いのだ。それに驚いているうちに、自分の顔に見慣れないものが付いている事に気がつく。
メガネ。生来、眼がいいはずの自分が、何でメガネをかけているのか、と疑問に思ったとき、黒い何かが視界を生めた。
其れが、前髪だと気がついた時、声が掛けられた。
「あん? まだやんの? ぼっちゃん?」
「―――は?」
不機嫌そうな言葉を返すが、其の自分の声に驚く。
自分の声では、無いのだ。図太い低い声ではなくて、思春期に訪れる声変わりのときの声だった。
其れに驚いているうちに、目の前に何かが、そびえ立った。今気が付いたが、明かりは真上から差し込む明るい日差しだけで、三人の顔は今一つ良く見えない。
薄暗い、狭い空間。建物の間にいるのか、と考えたときだった。
「やんのかって、聞いてんだよ」
卑下の意味合いが濃い、声。かつて、自分もこんな存在だった事をふと思い出すと、自嘲するよりも早く、呆れてしまう。少し身体能力が上がり始めたころで、何でもできる気になっていた、あの若い性分は、今では笑い種以外の何物でもない。
それを聞いた自分は、とりあえず右手の人差し指で見慣れないメガネを直すと、スッと相手を見据えた。
見た感じでは、高校生ぐらいだろうか。制服を着ていることから、まず間違いないと思うが、ある程度の身長があった自分だったが、其れより大きい。
理由はよく分からない―――というより、考えるのをやめたのだが、どうやら三人を相手にしなければならないようだ。
これまた意味の分からない事だが、体が痛みはないものの、全身筋肉痛の時のように遅く、華奢な状態。まともにやりあおうと言うものなら、勝ち目はない。
目の前の男達もそう思っているのか、単純に掴もうと手を伸ばしてきて――――。
次の瞬間。
「へ?」
その巨体が、地面に叩きつけられていた。
というより、叩きつけたといったほうが正しい。相手の行動で、対応できる行動をそのまま行動に移していたのだ。
古武術。
身体がなまってきたと感じた21歳の夏、近くにあったその教室に通い始めていた自分は、襲いかかられるともはや反射の域で返すようになっていた。
なぜなら、教室に入った瞬間から狙われると言う日常を送っていたからである。
反射的に行った行動は、一瞬。近寄ってきた相手の顔面に手を添え、右足で相手の両足を払ったのだ。体勢を崩した相手は、そのまま地面にたたきつけられるのである。
下は、柔らかい地面。死ぬ事はないだろう、と思いながら、もう1人のほうに視線を向け――――。
眼を見開いた。
女子がいたのは、知っていた。
知らなかった、見ていなかったのは、その女子の口に何か張られ、両腕が背中に回っていた事だ。そして、その端正な顔立ちは恐怖にゆがめられ、瞳には大粒の涙が、張り付いていた、と言う事。
そして、もう一人の男子生徒が、今まさにその女子に手を伸ばそうとしていたのだ。
――――其れに気がついた瞬間の行動は、早かった。
重い体に鞭を打ち、一気に駆け出し、横の壁に一歩よじ登り、蹴りだす。
女の子に覆い被さろうとしている男の、其の頭部に、思いっきり蹴りを、体重ごと叩き込む。
酷く重い身体のわりには、軽い。そんな矛盾を感じた手ごたえだったが、男は大地に叩きつけられたようだ。
地面に横たわる男の脇腹にそのまま脚を叩きつけながら、次いで振り返る。
驚きに眼を見開いているのは、残りの一人。呆然としているその男の髪を乱暴に掴むと、引っ張った。
「イテェッ!! イテェだろうがコラッ!! は、離せッ!!」
手を解こうとする前に、思いっきり掴みあげてやる。暴れだすその機先を付いて、言葉をかけた。
「おい」
痛がる言葉を、一言でかき消す。震えている女の子を見て、自分の眉間に皺がよるのを嫌でも感じた。
思春期で、異性に最も感心を持つこの時期に、やってはいけない禁忌。
相手の髪の毛を思いっきり引っ張るように握りこみながら、顔を近づける。
そして、思いっきり低い声で、告げた。
「何してんだ? ああ?」
「何って――――ガアアアアアアアアアアアっ!?」
髪の毛を、思いっきり引っ張りながら、相手の首筋に腕を押し付ける。腕を掴んでくるが、力を入れるには無理な体勢で、無理やりやると髪の毛に負担がかかるから、無闇に動けないのだ。
しかもこれは、ある程度の体重さえあれば、筋力はあまり関係ない。かがんでいた男には、対抗する手段が無かったのだ。
その相手の顔を、無理やり後ろに向ける。倒れている仲間を確認させると、低い声で続けた。
「このまま首を圧し折られたくなければ、あいつら連れてどっかに行け。お礼参りなら後で来な」
そういいながら、離す。頭を押さえていたやつは、やがて悲鳴をあげると、倒れた男をそのままに、逃げ出していった。
舌打ちを隠さず鳴らすと、物音がする。スッと視線を向けると、縛られている女の子が涙目で震えていた。
そこで、ようやく相好を崩す。屈みながら、言葉を掛けた。
「あ、ああ、ごめん。忘れてた。いま剥がすよ」
そういい、口元のテープを剥がす。後ろ手に回って、両手を縛っているテープを剥がそうとしたとき、小さな悲鳴と共に彼女の体が動いた。
彼女の顔を見上げたとき、脅えているのだ、と感じた。
其れはそうだろう、と思う。体格のいい男子二人組に、自分が襲われそうになったのだ。脅えないほうがどうかしている。
安心させるように微笑むと、口を開いた。
「大丈夫。ほら、手を出して」
言葉を聞いた彼女は、おずおずと後ろ手を差し出す。頑丈に巻きつけられたテープを、どうにかして剥がしていると、言葉がかけられた。
「あ、あの………?」
ガムテープを左右に千切り、剥がす。ようやく両手を解放することが出来たら、次は脚を縛っているガムテープも、引き千切る。
脚を縛っているガムテープに、指が巻かれてしまった。それに気がつき、慌てて剥がそうとしているところに、もう一度、言葉がかけられた。
「あ、あの!」
「………あ? あ、ああ、ごめん。何?」
――――其の言葉に、自分は驚いた。
(―――なんだ、この声?)
今まで伏せていた違和感が、一気に噴き出す。
『西原高等学校』―――自分が通う、学校の名前。
『一年二組』―――自分が通う学年と、組。
――――自分、『堤森 弘毅』という存在。
その四つの単語を思い浮かべた瞬間――――――
『情報』が、濁流となって「――――」を書き換えた。
「うあああああああああああああああああああああッ!?」
そのまま「――――」は、駆け出した。
生まれてこの方、人生最大の帰路ぐらいでしか深く悩んだことのない俺は、適当に走りきった後見つけた公園のベンチに、腰掛けていた。
「OK、落ち着いて今の状況を確認しよう、マイコゥ」
誰もいない公園で一人、ベンチに腰掛けていた俺は、誰にも聞こえないことをいい事に、そんなことを呟いていた。無論、マイコゥなんていないし、確認するのは自分なのだ。
今は、何月何日だ?
「西暦2005年、七月 二十五日」
ふむ。夏休み前だ。しかも、ついさっきまで終業式をして、終わったところで『同級生』の『佐藤 千夏』さんが不良達に襲われているところを助けようとして、失神した。
『俺』の名前は?
「堤森 弘毅」
………まぁ、いいさ。本当の名前と言っていいのか分からないが、『俺』はまだ思い出せないし、思い出そうとすると頭が痛いから、無視しよう。
歳は?
「十五歳。ただし、誕生日は九月 四日」
………………OK。把握した。把握したが理解できないし、仮に理解できても、信じられないことであるが、結局のところ其れが自分自身だと言う事で、つまり自分自身が証明と言う事で。
「――――いれかわりか」
なんといえばいいのか分からないが、つまるところ、本来の『俺』と、この『堤森 弘毅』が入れ替わってしまったのだ。
『堤森 弘毅』は、いわゆるオタクと呼ばれる人種だった。動くのが嫌い、勉強も嫌い、人付き合いも嫌いで、妹である『堤森 カグヤ』、『堤森 ミソラ』ですら、嫌っているみたいである。
親は、母親のみ。シングルマザーで三人の子供を育てている凄い人だが、こいつ『堤森 弘毅』―――つまり、俺はそんなこと知ったことかと吐き捨て、親の金を使って自分の趣味を満喫していたらしい。
まぁ、人付き合いが多い俺は、オタクの友達も多かったので、其の手の話題を話すことも出来るが、所詮は三流、興味がない。
つまり、世間一般で言うところの、絵に描いたような駄目人間だということだ。
「………でも、今は『俺』、だよ、な?」
面白い話題であれば、其れこそオタクだろうが根暗だろうが好きだが、それは『堤森 弘毅』ではなく、『俺』のことだ。
ここで大切なのは、今此処に座っている『堤森 弘毅』が何者なのか、と言うことだ。
当然、『堤森 弘毅』は『堤森 弘毅』だが、精神は『俺』。名前以外にも、色々と忘れている事はあるが、すこしは思い出せるし、出来る事なら元の『俺』に戻りたい。
となると、このまま『堤森 弘毅』としてしばらく生活をして、『情報』を集めるのが得策なのだが―――――
「絶対に、気に入らん」
良い事は、してきた。
悪い事も、してきた。
両親には迷惑をかけ、生きてきた。
だからこそ、気に入らない。
働くと言う事は、本当に大変なのである。根本的な位置に人付き合いがある以上、精神をすり減らすのは当たり前の上、自分の子供を育てると言うのは、それだけ大変なのだ。
なぜなら、五年間の独身生活ですら、大変だったのだから。
『俺』は、『堤森 弘毅』が、大嫌いだった。
この、米俵も担いだ事のないようなひょろひょろの身体に、捻くれた『思考』、過去の『行動』に『行為』、そして『行動指針』、其の何もかもが嫌だった。
だから、『俺』は決めた。
「………やってやるよ。本当の生活―――真・生活だ!」
この物語は、ここから始まる。
二つの人生が交わり、自分の過去を返り見て、満足の行く生活をするために。
ここから、始まったのだ。
これからゆっくりやっていきますので、どうか楽しんでいただければ幸いです。感想なんかも残していただければ、やる気に影響します。