再会の瞬間(とき)まで
約束が成立したところで、イブは青年を見てにこっとします。
そして、はたと思い当ります。
(けが!)
おいしそうな食べ物につられて、すっかり忘れていました。
イブは傷のあった脇腹を見つめます。
「治ったの? 痛くない?」
最初に会った青年の苦しそうな姿が、目に浮かびました。
心配そうに覗き込むイブのいじらしい瞳が、青年の心をとらえます。
「大丈夫ですよ」
青年はソファーから立ち上がると、軽く体を動かします。
傷が回復した今、痛みどころか、以前より体力が漲っているのがわかります。
肉体的にも精神的にも充実しているのがわかります。
思考がより、鮮明になった感じです。
これが癒しの力なのかもしれません。
元気になったのは、一安心です。が、イブは青年の全身を見て、顔を曇らせます。
「お兄ちゃんの服・・・」
切り裂かれていたのは、脇腹の傷のところばかりではありませんでした。
腕や足や、長さは違えども、何か所もバッサリと切れています。
脇腹以外傷はないようですが、思っていたよりも凄惨な姿に、イブは心配になりました。
血がついた剣といい、怪我といい、何があったのでしょうか?
「ああ、着替えれば済むことですから。気にしないでください」
気軽に服を変えるような軽い口調で、青年は言います。
でも、ボロボロに近い状態の服では、気にするなというほうが無理でしょう。
「パパの服持ってくるね」
イブは立ち上がります。
今のままでは、気になって仕方がありません。悪いことを考えそうで、心臓に悪いです。
だからといって、いきさつを聞くのも憚られます。
子供相手に、本当のことを話してくれるでしょうか?
イブ自身も理解することは難しいかもしれません。
それよりも、服を目にしない方が一番でしょう。気にしなくて済みます。
幸い、怪我は治っているのですから。
「いえ、このままで。すぐに帰りますので」
駆け出そうとしたイブを青年は引き留めます。
「えっ、帰っちゃうの? 今来たばかりなのに? もうちょっといて」
しばらくは、ここに滞在してくれるとばかり思っていたのです。
怪我は治ったとはいえ、もう少し様子を見てからでも、遅くはないでしょう。
せっかく遊び相手が見つかったのに。
冬の間は、森の友達も少なくて、寂しかったのです。
「すみません。帰らなくてはいけないのです」
言いながら、もう少し少女と一緒にいたいと思いました。
ここは春の陽だまりのように心地よいのです。
青年も思います。
現実を忘れることができるのなら、せめて、傷が癒えていなかったらと・・・
「もうちょっとだけ? ね?」
縋るように青年の腕を取って、ぎゅっとつかみます。
せっかく元気になったのです。少し話をしただけでさよならなんて、悲しすぎます。
イブは見上げると、反応をうかがうように青年を見つめます。
紅い瞳がイブを見つめます。
見惚れるほどに美しい透き通るような紅い瞳。
「おめめ、きれーい」
イブの口から感嘆の声が漏れます。
「きれい? この紅い瞳がですか?」
青年は紅い瞳を大きく見開きました。
「うん。お兄ちゃんのおめめ、好き。宝石みたいで、とってもきれい」
青年は、イブの飾らない素直な言葉に、驚きながらも、嬉しそうに微笑みます。
「紅い瞳は、わたしの国ではとても珍しいもの。畏怖されることはあっても、好きだと言ってくれたのは、あなたが初めてかもしれませんね」
「こんなにきれいなのに?」
初めて見た時から、紅い瞳に魅せられていたイブは不思議に思います。
「そうであってもです」
「そんなこ・・・と」
続けようとした言葉が止まります。
急に瞼が重くなりました。
強烈な睡魔が襲ってきます。
(まだ、寝ちゃダメなのに。お兄ちゃんに服を・・・)
目を開けようと、何度か抵抗してみたものの、無駄でした。
急速に意識が途絶えてしまいました。
眠ってしまった体が崩れ落ちそうになる前に、青年が抱きとめます。
「許せ」
ソファーに寝かしつけながら、青年が言います。
紅い瞳に呪文をのせたのです。
「お前とこんな別れ方はしたくない。できればもう少し、一緒にいたかった。だが、時間がないんだ。だから、許してくれるか?」
ぐっすりと眠り、夢の中にいるイブに話しかけます。
当然ながら、イブの返事はありません。
「俺の・・・そういえば、名前を聞かなかったな。お互いに名乗りもしていないし」
イブのおかしな発言から、調子がくるってしまいました。
それにしても、今までとは青年の口調が違います。聖人然とした言葉遣いはどこへ行ったのでしょうか。
こちらの方が、素なのでしょう。板についている感じがします。
「今度会った時に聞くか」
青年は深い眠りに落ち、微動だにしないイブの前髪を丁寧にはらうと、ひたいに手をのせました。
「今日の記憶は俺が預かるから」
青年は目を瞑り、呪文を唱えます。
唱え終わった後はゆっくりと目を開けました。
ひたいから手を離し、
「預かるだけだから、時期が来たら返すからな」
耳元で艶を含んだ声音で語りかけます。
青年は自分の小指を見つめます。イブとゆびきりをした右の指を。
そして、自分の小指に唇を寄せました。
それから、イブの右手を取り、小さくて柔らかな小指に、愛おしそうに、ゆっくりとくちづけを落としました。
それにしても、イブは全然気づきません。
眠りの呪文は思ったより効いているようです。
「俺の癒しの聖乙女」
手を握り、眠るイブを名残惜しそうに見つめていましたが、やがて意を決したように立ち上がりました。
呪文を唱えます。
「十年後、また会おう。約束は必ず守るから、楽しみにしておけよ」
青年は不敵な笑みと共に、煙をかき消すように、いなくなりました。
後に残ったのは、何も知らず、ぐっすりと眠るイブだけでした。