甘い匂いに誘われて
やっとの思いで、家に入ると、部屋の中心にどっかりと腰を据えているソファーへと、青年を横たわらせました。
大きめのソファーなので、青年の体もすっぽりと収まりました。
奥にはベッドもあるのですが、ここで充分なようです。自分で歩けるようになってから、移動してもらいましょう。
この家は小さいながらもすべてのものが揃っています。
見つけたのは去年。
少しずつ一人で遊びに行くことを覚えたころ。
好奇心で森に入ったのがきっかけでした。
動物たちや樹木たちと、話ができることを知ったのもこの頃です。
仲良しの樫の木のすぐそばにある小さな家。
持ち主は誰なのかわかりません。いつ来ても誰もいない。使われている形跡もありません。
いつしか、イブはこの家の中で遊ぶようになりました。
一年中、快適な温度で保たれていて、今も、暖かいのです。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
歩いてくるだけで精いっぱいだったのか、横たわった後は目を瞑り、眉間に深いしわをよせ痛みと戦っているようです。
押さえた右のわき腹からは、少しずつ血が滲んできています。
苦しげな青年がかわいそうで、イブは膝を折り、押さえている手に自分の手を重ねました。
止血をしようにもその術を知りません。
樫の木に傷を治す方法を聞こうか、どうしようかと迷っていると、また甘い匂いがしてきました。
さっきよりも、もっと、もっと、強く、濃く。
バニラエッセンスのような甘ったるい匂い。
イブはこの匂いが大好きなのです。
これだけ匂えば、わかります。
イブは匂いのもとへと顔を近づけました。
くらくらと酔うほどに漂う甘い匂い。
やっと、見つけました。
それは――
青年から流れる血の匂いでした。
イブは自分の手を外し、青年の手もそっとどかしました。
皮膚がザックリと切れ、深そうな傷口から、染み出すように血が出ています。
すごく甘い匂いがします。
甘く。甘く。
まるで、イブを誘っているかのように甘美な芳香を放っています。
「おいしそう」
言葉にしてしまったら、歯止めが効きません。
蜜に誘惑される蝶のように、甘い、甘い、匂いに誘われるまま、イブは顔を近づけました。
ぺろ。
試しに舌で舐めてみました。
「おいしい」
匂いと同じように、甘い、甘い、味がします。
すでに血という感覚はありませんでした。
ぺろ、ぺろ、ぺろっ。
もう止まりません。
青年は生温かな舌の感触に、一瞬ビクリと体を固くしましたが、かなり出血していたため、抗えるだけの体力も気力もありません。
こうなると、まな板の上のコイです。イブにされるがままでした。
ぺろ、ぺろ、ぺろっ。
チョコレートのようでもあり、ジャムのようでもあり、クリームのようでもあり、何とも形容しがたい不思議な味がします。
どれもがイブの大好きなものです。
ぺろ、ぺろ、ぺろっ。
何度も舐められているうちに、触れられたところから、熱が浸透するように体内が温かくなっていきます。青年の気持ちまでが凪いでいくことがわかります。抵抗できるわけがありません。ものすごく気持ちがいいのですから。
周りの血を舐め、そのおいしさを堪能すると、傷口から染み出す血へと触れました。
ぺろ、ぺろ、ぺろっ。
「あまーい」
傷口から染み出す新鮮な血は、さらに、もっと、もっと甘いものでした。
(これが一番おいしい)
夢中になって舐めていると、不可思議なことが起きました。
傷に舌を這わせるたびに、血を舐めるたびに、傷口が塞がっていくのです。
青年も熱さを感じるものの、傷が回復していくのがわかります。
細胞の一つ一つが再生されていくような感覚があります。
体の奥から力が漲ってくるのがわかります。
みるみるうちに、小さな傷さえ残さずに、治ってしまいました。
「あれ?」
夢中で舐めていたイブは、味がしなくなったことに気づきます。
「あれれ?」
目を凝らして見ても、血が流れていたはずの傷が見当たりません。
確かにあったはずなのに、どこに消えたのでしょうか?
一滴の血さえ残っていません。すべて舐めてしまったのでしょうか?
(おいしかったのに)
イブは物足りなさを感じながら、傷のあった脇腹を凝視します。
それにしても、いつの間に傷が治ったのでしょうか?
あれほどの傷を誰が治したのでしょうか。
ほんの小さな切り傷さえ何日もかかるのです。
すぐに治ってしまう怪我ではないことは、幼いイブでもわかります。が、治癒力を発揮したのはイブ本人であることは、微塵も気づいていないのです。
狐につままれたような顔をしていると、青年が身動ぎする気配がしました。
青年はゆっくりと上半身を起こすと、切り裂かれた衣服の間から、右のわき腹にそっと手を触れました。傷を確かめているようです。
なめらかな白い肌に、傷跡一つ残っていないことを確認すると、青年の顔が驚愕の色に染まります。
肌で感じていたとはいえ、実際に目で確認すると驚くなというほうが無理でしょう。
そして、青年の顔をびっくり眼で見上げている、イブの姿が目に入りました。
肩より短いくるくるっとした黒髪と濡れたように輝く黒紫色の瞳。少しふっくらとしたピンク色の頬、ほんのり色づいたチェリー色の唇。
イブをまじまじと見つめます。
他に人が見当たらないところを見ると、この愛らしい少女が怪我を治してくれたのでしょう。
そういえば、おぼろげな記憶を思い返してみると、声をかけてくれたのも、剣を渡してくれたのも、この家に連れてきてくれたのもこの子でした。
時折、「おいしい」とか「あまーい」とか、何やら歓喜の声が聞こえていたような気がしましたが、きっと痛みがみせた幻聴でしょう。そうに違いありません。
俄かには信じられない出来事ですが、ただ青年には心当たりがありました。
「癒しの聖乙女」
これが青年の発した初めての言葉でした。