剣の意思
どこからか、冬の冷気にのって甘い匂いがほんのりと漂います。
イブは匂いを嗅ぐように、くんくんと鼻をならします。
ママの匂いです。
お菓子を作ってくれる時の甘い匂い。イブの大好きな匂いです。
(どこからだろう?)
匂いの元を知りたくて、あたりをきょろきょろと見渡します。
広い森の中のこと、匂いは大気に溶けていくのか、なかなか元にたどり着けません。
『イブ』
樫の木が名前を呼びます。
その声につられるように、イブは青年に視線を向けました。
そうでした。
今は他のことに気を取られている場合ではないのです。
とにかく、いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう。
けがをした身では、寒さは大敵でしょうし、止血をすることも大事です。
早く温かい場所へと移動しなくてはなりません。
視界に入ったのは四、五メートル先の小さな家。
イブの目的地でした。
でもどうやって連れて行ったらいいのか。
短い距離とはいえ、相手は傷を負っている青年。ひとりで歩けるのでしょうか?
ふと、手にしていた剣を見ました。
これを使えば少しは違うかもしれません。でも、許可は必要でしょう。
「ねえ、剣さん。あなたの持ち主を助けたいの。杖代わりになってくれる?」
目の前に剣を掲げると、優しく語りかけました。
『 』
返事はありません。きらりんと光りもしないのです。
これはどちらに反応したのでしょうか?
イブはもう一度聞きます。
「あなたの持ち主は、ここにいる人?」
『 』
返事はありません。やっぱり、光りません。
こちらに反応したみたいですね。ということは、持ち主はほかにいるということなのでしょうか?
誰からかの借りものなのかもれません。でも、それは今は置いといて、先にすすめましょう。
「この人を助けたいの。杖代わりになってくれる?」
『・・・・・・』
今度は快い感情が伝わりました。きらりんと剣も光ります。
助けることに異存はないようです。
「お兄ちゃん。おうちに行こう」
苦悶の表情を浮かべる青年の顔を覗き込みます。
青年は初めて気づいたように、イブを見ました。
誰だ? こいつ?
青年の顔には警戒心がはっきりと表れていました。弱みを見せまいと挑むような目で睨みつけています。
一方、イブは初めて見た青年の瞳に目を奪われていました。
(きれーい)
紅い瞳。
まるで柘榴のような透明感のある紅い色。
柘榴を見た時、宝石のようだと思ったのです。
青年の瞳がまさしく宝石のようです。
白銀色の髪に、赤い瞳。
神秘的な組み合わせはイブの興味を充分に惹きつけます。
(助けなきゃ)
イブは突然、人命救助に目覚めます。
未だ警戒心を解かない青年を気にする風でもなく、
「あそこのおうちに行こう」
家のある方向を指さします。
青年もその方向を見て、イブを見て、交互に見比べます。
それから、敵意はないと判断したのか、相手が少女だということも手伝ったのでしょう。こわばっていた表情が、だんだんと平常なものへと変わっていきました。
イブは青年の目の前に剣を差し出しました。
青年は、自分の腰のあたりを見て、ないことに気づくとぎょっとしたように、イブを見つめます。
自分の持ち物であり、大事なものに触れたことがショックだったのかもしれません。
「ごめんなさい。汚れていたからきれいにしたの」
人の持ち物を勝手に触ったことには、こちらにも非があります。
イブは頭を下げて謝りました。
気持ちが通じたのか、青年は怒ったりする様子はありませんでした。
それよりも、早く、体を休ませないと。
血はいまだ止まる様子はありません。
冷気が体温を完全に奪ってしまわないうちに、家の中に入ることです。
イブは手を差し伸べ、青年は剣を杖にして、立ち上がり、ゆっくりと進んでいきました。
甘い匂い。
またどこからか、漂います。
さっきよりも濃く、甘く、匂いは増していきます。イブの大好きな匂いなのです。
(どこから?)
すぐにでもこの匂いの正体を知りたい。見つけたい。
思いながらも、今はそれどころではありません。
青年を助けることが、最優先でしょう。
イブは逸る気持ちを抑えながら、青年の手を取り歩いていきました。