雪が融けたあとで
まるで春の陽射しのような太陽の光が、森の雪をすっかり融かしてしまいました。
もうそろそろ、イブも家に着いた頃でしょう。
「イブに今日のことを教えてあげればよかったのに」
一匹の牡鹿が樫の木に話しかけます。
青年が森の中に入ってきた時、皆が恐怖に慄き耳を目を塞いでいた中、恐怖に臆することなく、動向を見ていた数少ない生き物です。
「どうしてだね? 話してもイブは思い出さないよ。記憶にないものを教えたところで何の役に立つ。イブを混乱させるだけだよ」
「……」
牡鹿にもわかっています。少し意地悪を言いたかっただけです。
「聡明なお前らしくないね。何をそんなに怒っているのだね」
樫の木は穏やかに話しかけます。
「怒っているって? 当たり前だよ。なぜ、あの男を森の中に入れたのさ。ここは誰でも入っていい森じゃないのに」
「それをわたしに聞くのかい?」
「そうだよ。今この森を守っているのが、あなただからだよ。この森に入れるか入れないか決めているのはあなたでしょう? ということは、あなたがあの男をこの森に入れることを許可したってことだよね」
牡鹿はイラつく様に、声を荒げます。
けれど、樫の木はそれに動じることなく静かに聞いています。
「あれは不可抗力だった。突然空間が割れたように、若者がこの森に現れたのだから。本当に一瞬だったのだよ。止める術もなかった」
「だけど、隠すことは出来たはずだよ。あのまま、イブに見つからなければ、きっと死んでいただろうしね」
物騒なことを平然と言いながら、しかも、そのほうがよかったみたいな物言いに、樫の木はやれやれとため息をこぼします。
「そうなれば、あれだけの不浄を浄化するには何十年とかかる。森だって不浄に穢されて、私達生き物は住めなくなってしまうかもしれない。あの剣に染みついた血には、純粋な殺意しかなかったからね。どんな悪者にだって少しばかりの良心はあるが、あれにはそんなものはなかった。人間の不浄は人間の手で祓う方が手っ取り早い。私達では手に余るのだよ」
「だからって、イブがそんなことをしなくても」
牡鹿は憮然とした態度で、ぷいっとそっぽを向きます。
「イブにはそれだけの力があるのは知っているだろう? あの子がここに入ることができるのは、膨大な浄化能力があるから。私達では持ちえない稀有な力。イブが来ると森は高揚する。清浄な気に満たされるからね」
「わかってるよ」
拗ねたような口ぶりで樫の木を睨みます。
わかっているのです。
もたらされた不浄が森自身では浄化しきれないことくらいは。
イブのおかげなのです。
沈黙していた森が以前と同じように、活性化していることもわかっているのです。
頭でわかっていても、感情にそれがついていかないのです。
樫の木は憮然としている牡鹿を見下ろしながら、
「お前はイブを若者に会わせたくなかったんだね」
少々呆れ気味に言いました。
その言葉を聞いた牡鹿が、
「……そうだよ」
俯き加減に呟きます。不機嫌なままで。
いつかは別れの日は来る。大人になればこの地を離れてしまうかもしれない。それでもこの世界にいるのだと思えば、まだ耐えられるのです。会える機会はまだ残されているから。
でも、別の世界に行ってしまったら……きっと、会うことは叶わない。
牡鹿にとって、それはとても耐えられないことでした。
初めて好きになった人間でした。
そばにいるだけで自然と微笑み、癒される。
イブの成長をずっと見守っていきたいと思っていました。これから、どんな素敵な女性になるのでしょうか。そのことがとても楽しみだったのです。
それが、突然現れた若者によって壊されるとは思いもしませんでした。
いつか、イブはこの世界からいなくなる。
恐怖にも似た気持ちを抱きながら、牡鹿はイブが去って行った方向を身動ぎ一つせず、見つめていました。




