無花果の木・第2回(完)
あのひとはやはり人間ではなかったのかもしれない。偽善者を激しく弾劾する時も、わたしもその一員であった弟子たちに向かってきびしく教えを説く時も、町でそして野で大勢の人々に対する時も、その柔和な光が失われることはなかったのだから。
このことは、あのひとにとってもわたしにとっても最後となったあの晩餐の席においても変わることはなかった。あのひとがわたしの行為を指摘した時も、わたしの退出を求めた時も、あのひとの表情はやさしく、静かだった。
わたしはその時とてもつらかったが、しかし、あのひとの表情がいつもと同じようにやさしく静かだったので、ふっと、あのひとは捕えられるのを望んでいるのではないかとさえ思った。むろん、わたしがそう思ったのは一瞬の錯覚であり、あのひとが捕えられた状況を希望するはずはなかった。あのひとが何かを、あるいはなんらかの状況を望むということ自体が、元来ありえないことなのだ。今にして思えば、あのひとは、捕えられればほとんど間違いなく自分は殺されるだろうと自覚していたように感じられる。
それではなぜ、あのひとは甘んじてわたしによって引き渡されたのだろうか。そして、なぜ甘んじて磔にされたのだろうか。わたしが先ほどから考えている、外面には出ることのなかったあのひとの疲労が、あのひとにそうさせたのだろうか。いや、そうではない。あのひとはただ、捕えられることを希望してはいなかったけれども、逃げることをも望まなかっただけなのだ。そういった意味では、あのひとにはすでに心の準備が、いわば死への覚悟ができていたと言えるのだろう。わたしは、あのひとが、運命によってとか、犠牲として身をまかせたとか言うつもりでいるのではない。それらの言葉は、あのひとに最もふさわしくない。あのひとは、捕えられることを望んではいなかったけれども、拒否することもなかった。ただそれだけのことだ。そう、そういったことはすべて必然だった。必然の大きな流れだったのだ。あのひとが必然の流れに身をまかせたというのではない。そう言ってしまえば、運命に身をまかせたと見るのと同じことになる。明らかに、そうではなかった。あのひとの存在、あのひとの言葉、あのひとの行為、あのひとの死が、あのひとのすべてが必然だったのだろう。あのひとそのものが、必然だったのだろう。
今になってわたしは、あのひとを引き渡した自分の行為を正当化しようとしているのだろうか。いや、あのひとの死が必然だったこと、あのひとの死についての覚悟がすでにできていたことをわたしがいくら主張しようとも、それは自分の行為の正当化に結びつける余地は全くないことからして、そうではないことは明らかだ。それに、そもそもあのひとにとって死が何だったと言うのだろう。死に対する覚悟などといった言葉自体があのひとにふさわしくない。あのひとと死との関係は、死があのひとを呑み込み、そのことをあのひとが受け入れるといった図式的なものではないはずだ。あのひとの存在そのものがすでに明らかに生や死の外にあり、そういった生とか死とかの現象の枠の中にはめ込むことのできないようなものだったと思われる。
そうなのだ。そして、それはまた、正とか邪とかの観念の入り込む余地のない世界だったのだ。わたしは一つの流れに流され、あのひとを売り、あのひとを引き渡したのだった。わたしのその行為はそうした流れの中の一粒の滴にすぎない。あのひとの死にかかわるすべての人々についても、同じことだ。彼らは、わたしも含めて、狂気の中にあったのではない。もっとはるかに、大きな流れの中にあった。その流れは、あのひとの死に向かって流れていた。
あの時もそうだ。わたしは、群衆の中から、よろけるあのひとを見た。あのひとは、他の罪人とともに、あの丘に向かっていた。あのひとは、断食の繰り返しで肉がそがれていた上に、捕えられてからは、たぶん水を除けばほとんど何も口にしていなかったのだろう、見るからに頼りなげで、とても生木で作られた、自らがはりつけられることとなる木組みを肩にして幾歩も進めるほどの体力は残ってはいなかったのだ。
一歩か二歩あのひとが進んでよろけると、誰かがあのひとに代わって、その生木の木組みを肩にして数歩進み、執行吏の鞭が音を立てて撓うと、あのひとがまたその木組みを肩にして一歩か二歩か進む……といった具合だった。
わたしも、二、三歩だったが、実はその木組みを背負った。それは本当に重く、私はほんの二、三歩しか進めなかったのだ。
あのひとは、それに気づいただろうか。このわたしがあのひとに代わって、二、三歩たしかにそれを背負ったという事実に。
あのひとはすでに朦朧としていたから、そのことに気づかなかったのではないかと、わたしはこれまで思っていた。しかし、今ならわかる。あのひとは当然このわたしに気づいていたのだ。わたしがそうしたということを明らかに知っていたのだ。あのひとにはわたしに微笑みかける体力は残ってはいなかった。しかし、思い返してみると、ほとんど閉じられていたあのひとの目の奥に、かすかな光が走りはしなかったか。
たしかにあのひとの死はあまりに痛ましい。あのひとの死に心を打たれない人はいないだろう。ましてやその死に少なからず関与したわたしの心は、すでに死刑宣告のときから無数にちぎれ、凍てついたものとなった。しかし、それでもなお、いや、それだからこそわたしは思うのだ、すべてはあのひとにふさわしかったのだと。そしてまた、あのひとの死に至るさまざまな出来事は、すべて起こらねばならなかったことなのだと。たとえば、道を歩いているときに、あるいは野で群衆に語りかけているときに、あのひとが刺されるといったような情況を想像することは、そういったことが起こる可能性が高かったにもかかわらず、意味がないことは明らかだ。あのひとは闘士ではなかった。あれは、あのひとの死は、ただその時が来たにすぎない。しかし、なんという時だったのだろう。あれは、儀式ではなかった(もともと、儀式的な死などありえないけれども)。あれは、すべての人々の上に起こったのだった。あれは、すべての人々のために、必要なことだった。わたしは、そう思う。
わたしは、しかし、あのひとの死の場面には立ち会わなかった。実際にあのひとが死んでゆくところを見ることはしなかった。わたしは、その下までは行ったのだけれども、あの丘に登ってゆくことがどうしてもできなかったのだ。
聞けば、あのひとの死は、とても悲惨だったという。あまりのむごたらしさに、何人もが気を失ったという。そして、あのひとの母親も、その気を失ったうちの一人だったという。
犬がまたひとしきり吠えた。今夜は、この季節にしては少し冷える。見上げると、月のない空には、おびただしい星が個性のない光を放っている。
本来ならば、あのひとの死は、そしてあのひとの存在は、静かに語り継がれてゆくべきものだ。しかし、そのあまりの必然性と劇的な背景のために、あの大柄なおとこは、そうはさせないだろう。
現にあのおとこは、すでにあのひとの復活を言っている。わたしは夕方、市場の人ごみのなかで、あのひとが三日ののちに復活することを自ら預言していたという噂を聞いた。わたしは断言できるが、あのひとはそんなことは言っていない。その噂は、あの大柄なおとこが勝手に広めたに決まっている。
そのことは、あのひとにとってはいい迷惑ではないかとわたしは思う。あのひとはもうすべてを忘れて、静かに眠っていたいのではないだろうか。
それにしても、一度死んでしまったあのひとの復活!
そのなんと俗なことか。いくらあのひとが日ごろ語っていた考え方を広めようという目的があるにしても、そのためには手段を選ばぬというのでは、あのひとも嘆くだろう。眉をひそめるだろう。……ただ、あのひとのことだから、大きな声でそれをやめさせようとはしないだろうけれど。
だから、三日後には、あのおとこは、あのひとが出現したと言いふらすに違いない。あのひとの姿を確かに見た、あのひとの声を確かに聞いたと。
それは、想像するだにおぞましい。いったい、あのひとの生誕の事情だけでは足りないというのか。生誕のことについてだけでは足りず、死後のことについてまで、手あかにまみれた伝説を作り上げようとするのか。
……しかしわたしには、それをやめさせることはできない。このわたしには、その流れを押しとどめる力は残っていない。
そうなのだ。あのひとの死は、そしてあのひとの存在は、静かに語り継がれるべきものなのだが、しかし、あの大柄なおとこは、そうはさせはしない。
また、ついでに言えば、わたしの死とわたしの存在は、かえりみる人もなく、土の中深く忘れ去られてゆくべきものだと、わたしは思う。しかし、このことについてもやはり、あの大柄なおとこは、そうはさせないに違いない。
わたしは死のうと思う。わたしの死は、なかんずくわたしが自分の手で死ぬことは、あの大柄なおとこの筋書きどおりというわけだ。わたしが自ら死を選ばなかったとしても、あのおとこはわたしを殺すだろう。あのおとこが自分でわたしを殺しにやってくるというわけではない。あのおとこがちょっと口を開くだけ、わたしを亡き者にするように暗示するだけで、わたしのところへ刺客がやってくるだろう。わたしは、そうなるよりも自ら死を選んだほうがよいと思ったのだ。しかし、わたしにとってより良いことが、あのおとこにとっても望ましいことであるのは、どうにもやりきれない。わたしが自死すれば、あのおとこは自分の手を汚さずにすむのだし、また人々に対する反響も一層大きくなるに違いないからだ。
それに、そうだ、わたしが死ねば、あのおとこは、わたしがあのひとを売ったことをおおっぴらに言いふらすだろう。今はまだわたしが生きているから、陰でこそこそ話題にはなっているようだが、そう表だってはいないそのことが。つまり、死んだら一層わたしの名前は傷つけられてしまうのだ。
そのやりきれなさが、わたしの決心をにぶらせる。用意はすっかりできている。暗くてよくは見えないが、木の枝から下がっている縄は、ひんやりとした風にぶらぶらしながら、わたしの首が通されるのを、しんぼう強く待っているはずだ。
先ほど手探りで縄を括りつけた枝は、そう太い枝ではなかったようだが、わたしの重みで折れることはないだろう。この木の枝は、柔らかそうに見えて案外に手ごわいのだ。少したわむようなことはあっても、まさか折れることはあるまい。
それに、わたしの体はすっかり痩せてしまっている。まるで枯木のようになっている。あの晩餐から、ほとんど何も食べていないからだ。食べものが喉を通らないのだ。
声でそれをやめさせようとはしないだろうけれど。
だから、三日後には、あのおとこは、あのひとが出現したと言いふらすに違いない。あのひとの姿を確かに見た、あのひとの声を確かに聞いたと。
それは、想像するだにおぞましい。いったい、あのひとの生誕の事情だけでは足りないというのか。生誕のことについてだけでは足りず、死後のことについてまで、手あかにまみれた伝説を作り上げようとするのか。
……しかしわたしには、それをやめさせることはできない。このわたしには、その流れを押しとどめる力は残っていない。
そうなのだ。あのひとの死は、そしてあのひとの存在は、静かに語り継がれるべきものなのだが、しかし、あの大柄なおとこは、そうはさせはしない。
また、ついでに言えば、わたしの死とわたしの存在は、かえりみる人もなく、土の中深く忘れ去られてゆくべきものだと、わたしは思う。しかし、このことについてもやはり、あの大柄なおとこは、そうはさせないに違いない。
わたしは死のうと思う。わたしの死は、なかんずくわたしが自分の手で死ぬことは、あの大柄なおとこの筋書きどおりというわけだ。わたしが自ら死を選ばなかったとしても、あのおとこはわたしを殺すだろう。あのおとこが自分でわたしを殺しにやってくるというわけではない。あのおとこがちょっと口を開くだけ、わたしを亡き者にするように暗示するだけで、わたしのところへ刺客がやってくるだろう。わたしは、そうなるよりも自ら死を選んだほうがよいと思ったのだ。しかし、わたしにとってより良いことが、あのおとこにとっても望ましいことであるのは、どうにもやりきれない。わたしが自死すれば、あのおとこは自分の手を汚さずにすむのだし、また人々に対する反響も一層大きくなるに違いないからだ。
それに、そうだ、わたしが死ねば、あのおとこは、わたしがあのひとを売ったことをおおっぴらに言いふらすだろう。今はまだわたしが生きているから、陰でこそこそ話題にはなっているようだが、そう表だってはいないそのことが。つまり、死んだら一層わたしの名前は傷つけられてしまうのだ。
そのやりきれなさが、わたしの決心をにぶらせる。用意はすっかりできている。暗くてよくは見えないが、木の枝から下がっている縄は、ひんやりとした風にぶらぶらしながら、わたしの首が通されるのを、しんぼう強く待っているはずだ。
先ほど手探りで縄を括りつけた枝は、そう太い枝ではなかったようだが、わたしの重みで折れることはないだろう。この木の枝は、柔らかそうに見えて案外に手ごわいのだ。少したわむようなことはあっても、まさか折れることはあるまい。
それに、わたしの体はすっかり痩せてしまっている。まるで枯木のようになっている。あの晩餐から、ほとんど何も食べていないからだ。食べものが喉を通らないのだ。
あのひとが牢に入ってから、わたしは急に不安になってしまった。牢に入ればしばらくの間はあのひとは迫っている刃から逃れられるだろうと思っていたのだが、別の心配が頭をもたげてきたのだ。それは死罪へのおそれだった。
わたしは、あのひとが牢に入っても、しばらくしたら罪を問われることもなくそのまま放免される可能性が高いと考えていたのだ。また、たとえ罪を問われる裁判になることがあるとしても、その決定は無罪となるだろうと見込んでいたし、万が一有罪ということになっても、その決定はこの町からの追放だろうと判断していたのだ。
ただ、そう思っていたのは、あのひとが牢に入る前のことで、実際にあのひとが牢に入ったあとでは、様々な噂が伝わってきて、そのなかにはなんと、あのひとの罪は死に値するというものも含まれていた。
死罪。それを耳にしたとたん、わたしは打ちひしがれてしまった。わたしの心は抜けがらのようになってしまった。
それ以来、口にするものをうまく飲み込めないのだ。食べものはまるで石のようだし、飲みものはすべて泥のような感じがする。
ああ、わたしはなんと愚かなことをしてしまったのだろう。わたしの思うことは、そのことだけだった。
もうわたしを待ってくれる者はだれもいない。
ただ、無花果の木は、じっとわたしを待ってくれている。無花果の木は、おそらくいつまでも、わたしを待っていてくれるだろう。 (了)




