第1話 行ってらっしゃい
人は、近すぎる相手のことほど分かっていない。
だらしない芋ジャージ姿。
散らかった部屋。
適当な返事。
陸にとって姉・蒼空とは、そういう「放っておけない人」だった。
けれど、その人は週末になると、一人で空へ飛んでいく。
今回の話は、そんな姉を初めて「見送る側」になった弟の記録である。
保安検査場の向こうへ消えていく四十秒が、陸の中で何かを静かに変えていく。
おかえり、蒼空。
──第2部「見送る人」。
姉ちゃんを見送るのは、今日が初めてだった。
陸が姉・蒼空のアパートに差し入れを持っていったのは、土曜日の朝だった。
いつも通り、インターホンを押した。
いつも通り、しばらく待った。
いつも通り、眠そうな声が返ってきた。
でも今日は、違った。
ドアを開けたら、姉ちゃんがいなかった。
正確には、いた。
でも、芋ジャージじゃなかった。
ネイビーのワンピース。
グレーのトレンチコート。
ローヒールのパンプス。
トートバッグとショルダーの二個持ち。
メイクをしている。
髪が整っている。
背筋が伸びている。
俺は玄関で固まった。
* * *
先月も、同じ姿を見た。
差し入れを持って来たら、ちょうど帰ってきたところで。
クローゼットのワンピースに気づいて、
慌てて閉めようとしたら、玄関から「ただいまー」って声がして。
あのときも、こういう姿だった。
でも今日は逆だ。
ちょうど出かけるところだった。
「あ、来たの」
姉ちゃんが言った。
聞き知ったいつもの声だった。
でも、全然いつも通りじゃない格好をしていた。
「……どこ行くの」
「空港」
「……また飛ぶの?」
「うん」
姉ちゃんはバッグの中を確認しながら、さらっと言った。
俺は玄関に立ったまま、姉ちゃんを見ていた。
* * *
「差し入れ、冷蔵庫入れといて」
姉ちゃんが言った。
「……うん」
俺はキッチンに向かった。
スーパーの袋を冷蔵庫に入れながら、考えた。
姉ちゃんは週末、たまにどこかに行く。
それは知っていた。
でも、こうして出かける姿を見たのは、初めてだった。
冷蔵庫を閉めて、リビングに戻った。
姉ちゃんはもう、玄関に向かっていた。
「行ってくる」
「……あ、」
俺は思わず言った。
「見送りに行っていい?」
姉ちゃんが振り返った。
一秒くらい、俺を見た。
「......なんで?」
「なんとなく」
姉ちゃんはしばらく考えた。
「来たいなら、来れば」
それだけだった。
* * *
電車に乗って空港の最寄り駅へ向かう。
姉ちゃんと並んで座った。
こうして二人で電車に乗るのは、久しぶりだった。
姉ちゃんはスマートフォンを開いていた。
JSNのアプリだ。
何かを確認している。
俺は窓の外を見ていた。
「何便乗るの」と、陸は尋ねてみた。
「七時四十五分発、那覇行き」
「那覇? また宮古も行くの?」
「今日は与那国と波照間」
「……どこそれ」
「沖縄の離島」
「遠い?」
「那覇より南」
「一人で行くの?」
「うん」
姉ちゃんはスマートフォンから目を離さずに答えた。
俺はそれを横から見ながら、思った。
姉ちゃんは、一人で沖縄の離島に飛んでいく。
週末に。普通に。
* * *
羽田空港に着いた。
自動ドアが開いた瞬間、姉ちゃんの空気が変わった。
俺は気づいた。
さっきまでと、同じ人間じゃなかった。
歩く速度が上がった。
背筋が伸びた。
目の焦点が変わった。
周りの情報を全部、処理しながら歩いている。
そういう歩き方だった。
俺は後ろからついていくだけだった。
「チェックインは済んでる」
姉ちゃんが言った。
俺に説明しているというより、独り言みたいだった。
「保安検査、あっち」
姉ちゃんが顎で方向を示した。
* * *
保安検査場の前に着いた。
ここから先は、乗客しか入れない。
俺はここで見送ることになる。
姉ちゃんが列に向かいながら、振り返った。
「じゃあ」
「……うん、気をつけて」
姉ちゃんは頷いた。
それだけだった。
列に並んだ。
トレイを取った。
バッグを置いた。
トレンチを脱いで畳んだ。
パンプスを脱いだ。
ゲートをくぐった。
荷物を回収した。
パンプスを履いた。
トレンチを羽織った。
全部で、四十秒くらいだった。
俺は呆然とその様子を見ていた。
姉ちゃんは振り返らなかった。
そのまま制限エリアの中に消えていった。
* * *
俺はしばらく、その場に立っていた。
保安検査場の向こう側に、姉ちゃんはいる。
でも見えない。
もうそこには、別の人間の流れがあるだけだった。
四十秒だった。
俺が靴を脱ぐか脱がないか迷っている間に、姉ちゃんは全部終えて消えていた。
あの動きは、何度もやってきた人間の動きだ。
体に染み込んでいる。
考えなくても、動く。
俺は今日初めて、それを目の前で見た。
* * *
帰りの電車に乗った。
行きとは逆方向に、一人で乗っていた。
窓の外を見た。
景色が流れていく。
姉ちゃんは今頃、搭乗口にいるだろうか。
それとも、もう乗っているだろうか。
俺には分からない。
あの保安検査の向こう側が、どういう世界なのか。
俺は一度も入ったことがない。
ただ、姉ちゃんはあの世界を知っている。
あの四十秒が、それを全部語っていた。
俺は窓の外を見ながら、思った。
姉ちゃんを、見送った。
なんか、変な感じだった。
いつも俺が差し入れを持っていって、
姉ちゃんを「ちゃんとしろよ」と言いながら世話をしている。
でも今日は、姉ちゃんがどこか遠くへ飛んでいった。
俺だけが、地上に残った。
蒼空は、自分の好きなものを他人に説明しない。
だから陸は、姉が飛行機に乗ることを知っていても、「どういう熱量でそこにいるのか」を知らなかった。
今回、陸が見たのは旅行ではない。
習慣になった移動の速度と、空港という場所に完全に適応した人間の動きだ。
そしてそれは、家で芋ジャージを着ている姉と、確かに同じ人間だった。
見送るという行為は、ときどき相手の知らない輪郭を突きつけてくる。
Good Day‼




