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南京町の悪役令嬢は、高級菓子の毒(マトリ)を嗅ぎ分ける  作者: 水前寺鯉太郎
第1部 悪役令嬢は名探偵

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9/20

第9話:解体される毒(きのこの山)

 御影家の広島別邸。

 庭園の芝生の上で、マックスはすっかり泥を落とし、本来の美しいアプリコット色の毛並みを取り戻していた。

 私はテラスの椅子に座り、しばらくその姿を黙って見ていた。

 昨夜、初めてカルナのことを声に出さずに泣いた気がした。泣いた、というより、ただ沁みた。プレッツェルの塩が。自分でも気づかないうちに、何かが少しだけ緩んだような夜だった。

 マックスが小さな尻尾を振りながら、私の足元に寄り添ってくる。

「……ずいぶんと『お行儀』が良くなりましたわね」

 私は静かに言った。格好をつけた台詞ではなく、ただそう思ったから。

 私はポケットから『きのこの山』の箱を取り出した。

 パキッ、ジャリジャリ……。

 箱を開け、袋を破る。甘いミルクチョコレートの香りが、潮風に混じって漂う。

 私は、一つを指先で摘み上げた。

 ポキッ。

 わざと音を立てて、チョコレートの「傘」と、クラッカーの「柄」を分離させる。

 ボリボリッ……。

 クラッカーの乾燥した音を噛み砕く。続いて、残ったチョコレートを舌の上で転がす。

(……この、甘みの奥。……微かに香る、安価な揮発油エーテルの匂い。……これは、市販品ではありませんわ)

 箱の裏を返す。印刷は完璧だ。バーコードも、賞味期限も、本物と見分けがつかない。だが、この重さと、チョコの質感が微妙に違う。誰かが市販品を精巧に模倣して、中身だけを差し替えた。

(……教授の系列が、流通ルートに乗せている偽装品。……きのこの山の「傘」の部分に、『ブラッド・マリア』の初期試作品を成型して紛れ込ませていますわね)

 その時。

 別邸の正門を乱暴に叩く音が響いた。

「おい! 御影の令嬢! 俺の犬を返してもらおうか!」

 現れたのは、安物のスーツに身を包み、不自然なほどテカり脂ぎった顔の中年男だった。その瞳は、ザッハトルテの底に沈んでいた「毒」と同じ、濁った色をしている。

「……あら。ゴミ捨て場から、随分と立派な『粗大ゴミ』が這い出してきたものですわね」

 私は座ったまま、男を冷徹に睨みつけた。マックスが私の背後に回り、低く唸り声を上げる。

「ガキが、なめた口を……! そいつは、俺が『実験』に使ってた大事なイヌだ! 返さねえなら、御影家ごと潰してやるぞ!」

 男が懐から警棒を取り出し、芝生へと踏み込んできた。

「実験……? 違いますわ。……あなたがやっていたのは、ただの『虐待』ですわよ」

 私は立ち上がり、手に持っていたきのこの山の偽物を、男の足元へ投げつけた。

 パチンッ!

 チョコレートの傘が弾け、中から灰色の粉末が舞い散る。

「ぐあッ! な、何をしやがる!」

「……大人しくしなさいな。見苦しいですわよ」

 私は、男が警棒を振り下ろすより速く、その懐へと飛び込んだ。

 ドスッ!

 令嬢の細い腕。だが、マトリとしての体術に、力任せの暴力は必要ない。相手の重心を完全に支配し、そのまま芝生へと組み伏せる。

「あががが! 離せ、離しやがれ!」

「……言いなさい。この偽物にせもの、どこで『調合』されたのかしら?」

 私は男の耳元で、甘く、冷徹に囁いた。

「言わないのなら、この場でこの毒を、あなたに全部食べさせて差し上げますわ。……ご安心なさい。お嬢様は、お残しを許しませんの」

「ひっ……! 待て、待ってくれ! 『教授』だ! 広島の学園の地下にあるラボで、教授が……!」

 駆けつけてきた狗巻刑事が、男を連行していくのを見送りながら、私は芝生に散らばった偽物の残骸を一瞥した。

「……狗巻刑事。この男、ただの下っ端ではありませんわ。……ラボの正確な位置を知っている。……徹底的に『料理』してくださいな」

 狗巻が男を引きずっていった後、庭園に静寂が戻った。

 マックスが、そっと私の足元に戻ってくる。

 私は芝生にしゃがみ込み、その小さな頭に手を置いた。昨夜から何も変わっていない。教授はまだそこにいる。カルナは戻らない。

 それでも、今朝のマックスの毛並みは、昨夜より少しだけ柔らかかった。

「……さて。本当の『ティータイム』でも探しに行きましょうか、マックス」

 私は立ち上がり、広島の空を見上げた。

 雲の切れ間から、薄い光が差している。

(第9話・了)

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