第9話:解体される毒(きのこの山)
御影家の広島別邸。
庭園の芝生の上で、マックスはすっかり泥を落とし、本来の美しいアプリコット色の毛並みを取り戻していた。
私はテラスの椅子に座り、しばらくその姿を黙って見ていた。
昨夜、初めてカルナのことを声に出さずに泣いた気がした。泣いた、というより、ただ沁みた。プレッツェルの塩が。自分でも気づかないうちに、何かが少しだけ緩んだような夜だった。
マックスが小さな尻尾を振りながら、私の足元に寄り添ってくる。
「……ずいぶんと『お行儀』が良くなりましたわね」
私は静かに言った。格好をつけた台詞ではなく、ただそう思ったから。
私はポケットから『きのこの山』の箱を取り出した。
パキッ、ジャリジャリ……。
箱を開け、袋を破る。甘いミルクチョコレートの香りが、潮風に混じって漂う。
私は、一つを指先で摘み上げた。
ポキッ。
わざと音を立てて、チョコレートの「傘」と、クラッカーの「柄」を分離させる。
ボリボリッ……。
クラッカーの乾燥した音を噛み砕く。続いて、残ったチョコレートを舌の上で転がす。
(……この、甘みの奥。……微かに香る、安価な揮発油の匂い。……これは、市販品ではありませんわ)
箱の裏を返す。印刷は完璧だ。バーコードも、賞味期限も、本物と見分けがつかない。だが、この重さと、チョコの質感が微妙に違う。誰かが市販品を精巧に模倣して、中身だけを差し替えた。
(……教授の系列が、流通ルートに乗せている偽装品。……きのこの山の「傘」の部分に、『ブラッド・マリア』の初期試作品を成型して紛れ込ませていますわね)
その時。
別邸の正門を乱暴に叩く音が響いた。
「おい! 御影の令嬢! 俺の犬を返してもらおうか!」
現れたのは、安物のスーツに身を包み、不自然なほどテカり脂ぎった顔の中年男だった。その瞳は、ザッハトルテの底に沈んでいた「毒」と同じ、濁った色をしている。
「……あら。ゴミ捨て場から、随分と立派な『粗大ゴミ』が這い出してきたものですわね」
私は座ったまま、男を冷徹に睨みつけた。マックスが私の背後に回り、低く唸り声を上げる。
「ガキが、なめた口を……! そいつは、俺が『実験』に使ってた大事なイヌだ! 返さねえなら、御影家ごと潰してやるぞ!」
男が懐から警棒を取り出し、芝生へと踏み込んできた。
「実験……? 違いますわ。……あなたがやっていたのは、ただの『虐待』ですわよ」
私は立ち上がり、手に持っていたきのこの山の偽物を、男の足元へ投げつけた。
パチンッ!
チョコレートの傘が弾け、中から灰色の粉末が舞い散る。
「ぐあッ! な、何をしやがる!」
「……大人しくしなさいな。見苦しいですわよ」
私は、男が警棒を振り下ろすより速く、その懐へと飛び込んだ。
ドスッ!
令嬢の細い腕。だが、マトリとしての体術に、力任せの暴力は必要ない。相手の重心を完全に支配し、そのまま芝生へと組み伏せる。
「あががが! 離せ、離しやがれ!」
「……言いなさい。この偽物、どこで『調合』されたのかしら?」
私は男の耳元で、甘く、冷徹に囁いた。
「言わないのなら、この場でこの毒を、あなたに全部食べさせて差し上げますわ。……ご安心なさい。お嬢様は、お残しを許しませんの」
「ひっ……! 待て、待ってくれ! 『教授』だ! 広島の学園の地下にあるラボで、教授が……!」
駆けつけてきた狗巻刑事が、男を連行していくのを見送りながら、私は芝生に散らばった偽物の残骸を一瞥した。
「……狗巻刑事。この男、ただの下っ端ではありませんわ。……ラボの正確な位置を知っている。……徹底的に『料理』してくださいな」
狗巻が男を引きずっていった後、庭園に静寂が戻った。
マックスが、そっと私の足元に戻ってくる。
私は芝生にしゃがみ込み、その小さな頭に手を置いた。昨夜から何も変わっていない。教授はまだそこにいる。カルナは戻らない。
それでも、今朝のマックスの毛並みは、昨夜より少しだけ柔らかかった。
「……さて。本当の『ティータイム』でも探しに行きましょうか、マックス」
私は立ち上がり、広島の空を見上げた。
雲の切れ間から、薄い光が差している。
(第9話・了)




