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南京町の悪役令嬢は、高級菓子の毒(マトリ)を嗅ぎ分ける  作者: 水前寺鯉太郎
第1部 悪役令嬢は名探偵

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8/20

第8話:塩味の誓い(プレッツェル)

 佐伯工場長の吐き出した、レモン味の嘘(詭弁)。

 それが胃の奥に鉛のように溜まっている。私は一人、広島の夜の街を歩いていた。雨上がりのアスファルトが、街灯を反射して不気味に光っている。

「……お口直しに、少しばかり『骨』のある刺激が必要ですわね」

 私はポケットから、細長い『プレッツェル』の袋を取り出した。

 ポキッ、ポキリ。

 一本を取り出し、指先で折る。乾燥した生地が弾ける小気味よい音。

 ボリ、ボリボリッ……。

 奥歯で粉砕する。表面にまぶされた岩塩が舌を突き、続いて香ばしい小麦の苦味が口腔を支配する。オレオの甘さでは、今夜の苦さは誤魔化せない。この硬い塩気だけが、佐伯の甘言で鈍った感覚を、正直に研ぎ澄ましていく。

 その時。

 路地裏のゴミ捨て場の陰から、微かな、震えるような吐息が聞こえた。

「……何かしら」

 私はプレッツェルを噛み砕く音を止め、闇を見据えた。

 そこにいたのは、泥にまみれ、毛玉だらけになった一匹のトイプードルだった。

 痩せさらばえた体、怯えた瞳。首元には、鎖で繋がれていたのか、痛々しい擦り傷の跡がある。

 私は、しばらく動けなかった。

 怯えて、縮こまって、それでも生きている。その小さな震えを、私はどこかで知っている気がした。知っているというより——見たかった、と言うべきか。

 カルナも、最後にこんな顔をしていたのだろうか。

 私が間に合っていたなら、こんなふうに怯えていたこの子を、抱き上げてやれたのだろうか。

 わからない。もう、確かめる方法もない。

 ただ、今ここに、震えているものがいる。

 私は無言で、もう一本のプレッツェルを袋から取り出した。

 パキッ。

 わざと音を立てて半分に割り、手のひらに乗せて差し出す。

「……安心なさい。これは『毒』ではありませんわ。……わたくしが保証しますわよ」

 犬は鼻をヒクつかせ、恐る恐る顔を上げた。プレッツェルの香ばしさと塩の匂いが、その生存本能を刺激したらしい。

 カリッ、カリカリ……。

 小さな牙が、プレッツェルを噛み締める。

 ムシャムシャ。

 私は泥だらけの体を、そっと抱き上げた。震えていた体が、私の体温に触れて、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。

「名前が必要ですわね」

 少し考えて、私は言った。

「『マックス』。……最大限マキシマムに、生き抜いていただきますわよ」

 カルナという名前は、もう誰にもつけられない。でもこの名前は、今夜ここで生きていたこの子のためにある。それだけでいい。

 マックスは、私の腕の中で一度だけ短く鳴いた。

「さて。……お嬢様のティータイムを汚した連中に、吠え面をかかせてやりましょうか。……覚悟はよろしいかしら、マックス」

 私は残りのプレッツェルを一本、静かに噛み砕いた。

 塩の味が、今夜はやけに沁みた。

(第8話・了)

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