第8話:塩味の誓い(プレッツェル)
佐伯工場長の吐き出した、レモン味の嘘(詭弁)。
それが胃の奥に鉛のように溜まっている。私は一人、広島の夜の街を歩いていた。雨上がりのアスファルトが、街灯を反射して不気味に光っている。
「……お口直しに、少しばかり『骨』のある刺激が必要ですわね」
私はポケットから、細長い『プレッツェル』の袋を取り出した。
ポキッ、ポキリ。
一本を取り出し、指先で折る。乾燥した生地が弾ける小気味よい音。
ボリ、ボリボリッ……。
奥歯で粉砕する。表面にまぶされた岩塩が舌を突き、続いて香ばしい小麦の苦味が口腔を支配する。オレオの甘さでは、今夜の苦さは誤魔化せない。この硬い塩気だけが、佐伯の甘言で鈍った感覚を、正直に研ぎ澄ましていく。
その時。
路地裏のゴミ捨て場の陰から、微かな、震えるような吐息が聞こえた。
「……何かしら」
私はプレッツェルを噛み砕く音を止め、闇を見据えた。
そこにいたのは、泥にまみれ、毛玉だらけになった一匹のトイプードルだった。
痩せさらばえた体、怯えた瞳。首元には、鎖で繋がれていたのか、痛々しい擦り傷の跡がある。
私は、しばらく動けなかった。
怯えて、縮こまって、それでも生きている。その小さな震えを、私はどこかで知っている気がした。知っているというより——見たかった、と言うべきか。
カルナも、最後にこんな顔をしていたのだろうか。
私が間に合っていたなら、こんなふうに怯えていたこの子を、抱き上げてやれたのだろうか。
わからない。もう、確かめる方法もない。
ただ、今ここに、震えているものがいる。
私は無言で、もう一本のプレッツェルを袋から取り出した。
パキッ。
わざと音を立てて半分に割り、手のひらに乗せて差し出す。
「……安心なさい。これは『毒』ではありませんわ。……わたくしが保証しますわよ」
犬は鼻をヒクつかせ、恐る恐る顔を上げた。プレッツェルの香ばしさと塩の匂いが、その生存本能を刺激したらしい。
カリッ、カリカリ……。
小さな牙が、プレッツェルを噛み締める。
ムシャムシャ。
私は泥だらけの体を、そっと抱き上げた。震えていた体が、私の体温に触れて、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。
「名前が必要ですわね」
少し考えて、私は言った。
「『マックス』。……最大限に、生き抜いていただきますわよ」
カルナという名前は、もう誰にもつけられない。でもこの名前は、今夜ここで生きていたこの子のためにある。それだけでいい。
マックスは、私の腕の中で一度だけ短く鳴いた。
「さて。……お嬢様のティータイムを汚した連中に、吠え面をかかせてやりましょうか。……覚悟はよろしいかしら、マックス」
私は残りのプレッツェルを一本、静かに噛み砕いた。
塩の味が、今夜はやけに沁みた。
(第8話・了)




