第7話:甘い詭弁(レモンケーキ・リプライズ)
工場の最奥、厚い防音扉の向こう側。
そこは、油にまみれた製造ラインとは別世界の、静寂とシトラスの香りに満ちた応接室だった。
「おや……御影グループの令嬢が、このようなむさ苦しい場所へ。一体、何の御用でしょうかな?」
デスクの向こうで優雅に椅子を回転させたのは、工場長の佐伯だった。整えられた銀髪に、一点の曇りもない眼鏡。その佇まいは、犯罪者というよりは、冷徹な銀行員に近い。
「とぼけないでくださいまし。……この工場の裏に捨てられていた『試作品』は、既にわたくしが検食済みですわ。……濃縮された溶剤と、あの不快なガラス粉。……言い逃れはできませんわよ」
私はポケットから、いつもの『オレオクッキー』を取り出した。
パキッ、ポリポリッ……。
漆黒のココアが脳を叩き、佐伯が放つ「嘘の臭い」を鮮明に浮かび上がらせる。
「……ふむ。不法侵入の上に、ゴミを漁るとは。御影家の教育方針を疑いますな」
佐伯は薄く笑い、デスクの上に置かれた木箱を開けた。中には、個包装された最高級の『レモンケーキ』が並んでいる。
「証拠、とおっしゃるなら、こちらをどうぞ。我が工場の誇る、完成品です。……ゴミ箱の中のものと一緒にされては、パティシエたちが泣きますよ」
私は無言で、差し出された一つを手に取った。
前回のそれとは、質感が明らかに違う。包装紙を剥がすと、まるで真珠のような光沢を放つレモンチョコが、一点の隙もなくスポンジを覆っていた。
パリッ……、しっとり。
歯を立てた瞬間、薄いチョコの膜が繊細な音を立てて弾け、中から絹のように滑らかな生地が顔を出す。
ジュワッ、……。
鼻に抜けるのは、天然のレモンピールの鮮烈な香りと、計算し尽くされた甘み。
(……! 素晴らしい。……劇物を感じさせないほどの、完璧な乳化。……ですが、この喉の奥に残る、微かな重金属の熱は……)
「……いかがかな? 法的に禁止された成分など、1ミリグラムも検出されませんよ。……我々が使っているのは、あくまで『認可された添加物』の、特殊な組み合わせに過ぎない」
佐伯は眼鏡のブリッジを押し上げ、淀みない口調で続けた。
「ガラス粉? 違いますな。あれは食感にアクセントを加えるための、可食性のミネラル・クリスタルです。……胃腸を傷つける? 滅相もない。……吸収効率を高めるための、現代科学の粋ですよ。……文句があるなら、厚生労働省の基準値を書き換えてからお越しなさい」
ジャリッ。
私が噛み締めた生地の奥で、その「クリスタル」が不敵な音を立てた。
「……弁が立ちますわね、工場長」
私は静かに、ケーキを皿に置いた。
ロンドンでも、こういう男がいた。言葉を積み上げて、事実を見えなくする。カルナに値段をつけた書類も、こういう男の手できれいな言葉で書かれていたのだろう。人の命を、「特殊な組み合わせ」と呼ぶような言葉で。
私はその思考を、表情に出さなかった。
「……前世でも、あなたのような『言葉の毒』を吐く男が、私の同僚を何人も罠に嵌めてくれましたわ」
「前世? 冗談が過ぎますな、お嬢様。……さあ、満足したらお帰りください。……これ以上営業を妨害されるなら、こちらにも考えがあります。……御影グループの看板に、泥を塗りたくはないでしょう?」
私は立ち上がり、ドアのノブを掴んだ。
今日は引く。証拠が足りない。佐伯の言葉は法律の内側に巧妙に収まっていて、今の私には崩す手札がない。それだけのことだ。負けではない。ただ、まだ終わっていないというだけのことだ。
「……良いでしょう。……今日のところは、その『完璧なレシピ』に免じて、引き下がって差し上げますわ」
「……ですが、覚えておきなさい。レシピが完璧であればあるほど、料理人の『癖』は色濃く残るもの。……あなたの主、広島の『教授』に伝えなさい。……お嬢様のティータイムを汚したツケは、必ず『全額』支払っていただきますわよ」
背後で佐伯が鼻で笑う音を聞きながら、私は冷たい夜風の吹く屋外へと踏み出した。
夜の瀬戸内が、黒く光っている。
あの完璧なレモンケーキの味が、まだ喉の奥に残っていた。天然のレモンと、微かな重金属の熱。美しいものの中に毒を隠す、その技術だけは、本物だった。
だからこそ、許せない。
(第7話・了)




