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南京町の悪役令嬢は、高級菓子の毒(マトリ)を嗅ぎ分ける  作者: 水前寺鯉太郎
第1部 悪役令嬢は名探偵

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第6話:貝殻(マドレーヌ)の沈黙

瀬戸内海を臨む、埋め立て地の最果て。

 錆びついたクレーンと、窓のない無機質なコンクリートの塊――それが、広島県下で流通するレモンケーキの過半数を製造する『瀬戸内甘味加工・第三工場』の実体だった。

 私は、地味なトレンチコートを羽織り、御影家の令嬢であることを一時的に封印して、工場の外周を歩いた。

「……あら。この廃液、レモンの清涼感の裏に、微かに『ニトロベンゼン』のアーモンド臭が混じっていますわね」

 私は、いつもの『オレオクッキー』をポケットから取り出した。

 パキッ、ジャリジャリ……。

 黒い粒子の暴力的な苦味が、重油と薬品に汚染された空気を脳内で強引に濾過していく。

 工場の裏手。積み上げられた廃棄用の段ボールの影に、不自然なほど清潔なプラスチック容器が捨てられていた。その中に、一つだけ、包装されていない『マドレーヌ』が転がっている。

「……おや。レモンケーキの工場で、なぜマドレーヌ(これ)が?」

 私はそれを指先で摘み上げ、太陽にかざした。

 美しい貝殻の形。だが、その表面は異様にテカり、指先に嫌な粘り気を残す。

 私は躊躇なく、その端をかじり取った。

 ムギュッ、……。

 バターを過剰に含んだ生地が、口腔内で重苦しく押し潰される。

 グチャッ、……。

 噛み締めた瞬間、中心部から溢れ出したのは、芳醇なラム酒の香り……ではない。

(……! 揮発性の溶剤を、合成バターで乳化させて閉じ込めている。……まさに、開かずの貝殻マドレーヌね)

 ザリッ、ジャリッ……。

 奥歯を削る、あの忌々しい『ガラス粉』の感触。それは、前回のレモンケーキよりも遥かに高濃度で、まるで紙やすりを噛んでいるかのような不快感を脳に直接叩きつけてくる。

「……っ、ぺっ!」

 吐き出した瞬間、意識が揺れた。

 マドレーヌ。貝殻。開かずの記憶。

 ロンドンの、あの路地裏の菓子屋。アリスとして生きていた頃、追跡の合間にいつも立ち寄った店の、バターと砂糖の匂い。そしてその匂いが途切れた夜——カルナを失った夜の、冷たいアスファルトの感触。

 あの夜、組織の上層部から命令を下した声を、私は一度だけ電話越しに聞いた。

 低く、穏やかで、まるで授業をするような声だった。

 教授。

 その声と、目の前の工場が、今初めて一本の線で繋がった。

 私は静かに立ち上がり、コートの泥を払った。怒りでも昂りでもない。ただ、長い間霧の中にあったものが、輪郭を持ち始めた感覚だった。

「誰だ、そこで何をしている!」

 工場の通用口から、防護服を着た男たちが飛び出してきた。その手には、お菓子工場にはおよそ不釣り合いな、スタンガンと警棒が握られている。

「あら。ゴミ捨て場の掃除が行き届いていないようですわよ。……特に、この毒入りの貝殻マドレーヌ専門家プロの目から見れば、証拠の塊ですわ」

 私はコートを脱ぎ捨て、その下に隠していたマトリの証票を、夕闇の中で掲げた。

「御影瑠璃。……厚生労働省 麻薬取締官ですわ。……この不潔な工場のメニュー、全て検食(ガサ入れ)させていただきます。……覚悟はよろしくて?」

 男たちが一斉に襲いかかってくる。

 私は迷わず、先頭の男の喉元へ、令嬢の如くしなやかな抜き手を叩き込んだ。

「あがっ……!?」

「お黙りなさい。……貝殻は、黙って海に沈んでいるのがお似合いですわ」

 私は男を冷たいコンクリートに組み伏せ、工場の奥から漂う、さらなる「甘い毒」の気配を睨みつけた。

 あの声の主が、この奥にいる。

 カルナの名前に値段をつけた人間が。

「……さて。口直しに、工場長を『料理』しに行きましょうか」

(第6話・了)

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