第5話:酸鉄のレモンケーキ
阿鼻叫喚。
広島純真学院の広大な食堂は、昼食時を境に地獄へと変貌した。
「う、うあああッ!」
「お腹が、焼けるように……っ!」
数百人の生徒たちが一斉に腹部を押さえ、床をのたうち回る。吐瀉物の酸っぱい臭いと、パニックに陥った教師たちの怒号。次々と到着する救急車のサイレンが、要塞のような校舎に反響していた。
私は、その光景を一秒だけ、直視した。
小さな靴が、床を蹴っている。誰かが誰かの名前を呼んでいる。間に合った人間と、間に合わなかった人間の境界線が、今この瞬間にも引かれていく。
カルナ。
私はその名前を、声に出さずに呑み込んだ。そして、一秒後には優雅に制服の乱れを整えていた。
「……あら。この阿鼻叫喚のBGM、少々ボリュームが大きすぎますわね」
私はポケットから『オレオクッキー』を取り出した。
パキッ、ジャリリッ……。
黒い粒子の乾いた振動が、喉の奥にへばりつく腐敗の予感を一掃していく。
間もなく、広島県警の捜査員たちが食堂になだれ込んできた。
「全員動くな! 証拠品には手を触れるな!」
防護服を着た鑑識課員たちが、生徒たちが食べていたトレイを慎重に回収し始める。その中に、一際異彩を放つデザートがあった。
黄色いパラフィン紙に包まれた、ラグビーボール型の『レモンケーキ』。
「……これですわね。本日のメイン・ディッシュは」
私は警察の制止を無視し、立ち入り禁止のテープを軽やかに潜り抜けた。
「おい、君! 何をやってる、下がれ!」
若手の刑事が怒鳴るが、私は聞こえないふりをして、テーブルに残されたレモンケーキを手に取った。
ペリッ、……。
包装紙を剥がすと、鮮やかなレモンイエローのチョコレートコーティングが現れる。その表面は、まるで人工的なプラスチックのように滑らかで、異常なまでに強い人工香料の匂いを放っていた。
私は、それを躊躇なく口へと運ぶ。
パキッ、ネチャ……。
表面のチョコが割れ、中からパサついたスポンジが顔を出す。
ジュワッ、……。
噛み締めた瞬間、レモンの爽やかさを完全に逸脱した、舌を焼くような強烈な「酸」が溢れ出した。
(……! 濃硫酸を、クエン酸と合成香料で極限までマスキングしていますわね。それに、このスポンジの奥底……ジャリッと響く、あの『ガラス粉』の感触)
「こら! 何を食べてるんだ! 証拠品だぞ!」
血相を変えた刑事が私の腕を掴む。私はそれを優雅に振り払い、口内の不快な酸味を、残りのオレオで強引に上書きした。
「あら。あまりに美味しそうでしたので、つい『毒見』を失礼しましたわ。……でも、警察の出番は、もう終わったようですわね」
「なんだと?」
「このケーキ、焼きが甘すぎますわ。……『教授』の美学というよりは、お掃除係の仕事。証拠隠滅のための、粗悪な毒殺レシピですもの」
私はニヤリと笑い、口の端に付いた黄色いチョコを指先で拭った。
「御影家の令嬢を、こんな不潔な場所でこれ以上尋問なさるおつもり? ……わたくし、お腹を壊してしまいそうですわ」
「……ちっ、さっさと外へ出ろ! 病院へ行くなら署の車両で送る!」
半ば追い出されるように食堂を後にした私は、校庭の隅で待機していた狗巻刑事に目配せをした。
「……お嬢、無茶しやがって。マジで食いやがったのか?」
「ええ。おかげで口の中が、安物の洗剤を飲んだような味ですわ」
私は冷徹な瞳で校舎を見上げた。
「狗巻刑事。……生徒たちを運んだ病院のリストを。それから、広島の『レモンケーキ』の製造ラインを全て洗ってくださいな。……この毒、ただの食中毒で済ませるには、少々『濃度』が高すぎますわよ」
「……わかった。お嬢は?」
私は答えなかった。
救急車が、また一台、校門を出ていく。サイレンの音が遠ざかるのを、私はただ聞いていた。
間に合った。今日は、間に合った。
それだけを、胸の中で確かめた。
「……さて。口直しに、本当の『瀬戸内レモン』でも探しに行きましょうか」
(第5話・了)




