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南京町の悪役令嬢は、高級菓子の毒(マトリ)を嗅ぎ分ける  作者: 水前寺鯉太郎
第1部 悪役令嬢は名探偵

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第3話:黄金のアップルパイ、嘘の皮を剥ぐ

 北野異人館街。神戸港を見下ろす高台に建つ、かつての英国領事館を改装した会員制洋菓子店『黒薔薇シュヴァルツ・ローゼ』。

 私は、御影家の家紋が入ったクラシックカーを横付けし、完璧な悪役令嬢としての笑みを浮かべて、アイビーが絡まる煉瓦造りの門をくぐった。

「……あら。この空気、バターの香ばしさの裏に、微かに『硝酸』の刺すような匂いが混じっていますわね」

 私は、いつもの『オレオクッキー』を指先で弄んだ。

 パキッ、ジャリジャリ……。

 黒いココアの粒子が舌の上で暴れ、強引に意識を「捜査モード」へと引きずり戻す。

「いらっしゃいませ、御影様。……当店の『アップルパイ』がちょうど焼き上がったところでございます」

 白髪のギャルソンに案内されたテラス席。運ばれてきたのは、芸術品のようなアップルパイだった。

 パリッ、サクサクッ、ホロホロ。

 銀のナイフを入れた瞬間、何百層にも重ねられたパイ生地が、まるで薄氷が割れるような繊細な音を立てて崩れ落ちる。その隙間から、飴色の紅玉リンゴが放つ熱い湯気が、シナモンの香りと共に立ち上った。

 私は一切れを口に運ぶ。

 バリッ、バリバリッ!

 バターの濁流が口腔内で爆発し、続いて煮詰められたリンゴの果肉がクニュッ、とろ~りと舌を愛撫する。だが、その甘美な熱狂の直後、喉の奥を焼くような不自然な刺激が走った。

(……見つけましたわ。この舌を刺すような後味。『ブラッド・マリア』の触媒、無水酢酸の残留臭ですわね)

 私はダージリンで口内を洗浄し、冷徹な目を向けた。

「パティシエにお会いしたいわ。このパイを作った『天才』に、直接敬意を表したいのですもの」

 店の奥。甘い香りの漂う厨房とは遮断された、無機質な研究室のような隠し部屋。そこに、白衣を纏った男が立っていた。パティシエにして化学者ケミスト、九条。その瞳は、冷え切った液体窒素のように温度がない。

「御影瑠璃様。……私の作品に、何かご不満でも?」

「不満? 滅相もありませんわ。特に、シナモンの香りで**『精製時の不純物』**を隠蔽する技術。これほどのお菓子レシピを作れる方は、世界でも片手で数えるほどしかおりませんわ」

 九条の眉がピクリと跳ねる。私は迷わず、黒いマトリの証票を突きつけた。

「ロンドンで頓挫したはずの禁忌。それを完成させたのはあなたね。……覚悟はよろしくて?」

「……まさか、お嬢様がマトリとは。だが、ここは私の城だ」

 九条が机の上のフラスコを地面に叩きつけた。

 パリーン!

 砕け散るガラス。中から、禍々しい紫色のガスが噴出する。

(……っ!)

 私はとっさにハンカチで口を覆い、同時に残っていたオレオを口に放り込んだ。

 ガリガリッ、ボリボリッ。

 強いココアの苦味成分が、肺に届く前の嗅覚を強引に麻痺させ、意識の混濁を食い止める。

「……無駄だ。これは私の最高傑作を気体化させたもの。吸い込めば一瞬で多幸感の泥に沈む」

「残念ですわね。わたくし、安っぽいドラッグより、『ジャンクなお菓子』の刺激の方が好みなんですの!」

 ドスッ!

 視界が歪む中、私は九条の懐に飛び込み、その細い手首を掴んで捻り上げた。

 ミシリ。

 関節が悲鳴を上げる。令嬢の筋力ではなく、相手の重心を完全に支配するマトリの制圧術だ。

「あがっ! 離せ、この……!」

「お黙りなさい。あなたの作ったお菓子は、確かに完璧でした。けれど、人の命を弄ぶレシピに、私の街を汚す権利はありませんわ」

 私は九条を床に組み伏せ、膝でその頸動脈付近を圧迫した。

 彼の胸ポケットからこぼれ落ちたのは、ザッハトルテに使われていたものと同じ、微細なガラス粉末が混じった灰色の結晶。

「言いなさい。この『レシピ』をあなたに授けたのは、誰?」

「くっ……。し、知るか……俺はただ、あいつから……『広島』のあいつから、資金と組成式を受け取っただけだ!」

「広島の……誰ですの?」

「……『教授プロフェッサー』……。あそこには、地獄を煮詰めたようなラボがある……」

 広島。教授。

 その二つの言葉が、静かに胸の奥へ沈んでいった。

 組織の中枢コア。ロンドンで私を殺した黒幕の、さらに深い場所。

 そして——カルナを殺した命令は、そこから下りてきたのだろうか。

 私は床に膝をついたまま、一瞬だけ目を閉じた。怒りでも、昂りでもない。ただ、小さな靴音が遠ざかっていくあの夜の感触が、指先まで蘇ってくる。

 すぐに、目を開けた。

 駆けつけた狗巻刑事が、気絶した九条を抱え上げるのを見送りながら、私はテラスに残されたアップルパイを一瞥した。

「……狗巻刑事。この店、差し押さえついでに全品没収しておいてくださる?」

「あア? 証拠品としてか?」

「いいえ。毒が入っていないか、わたくしが一点残らず『検食』して差し上げますわ。お嬢様は、お残しを許しませんので」

 狗巻が苦笑いを浮かべて去っていく。

 私は一人、テラスに残った。

 夕闇の中、眼下に広がる神戸の街。港の灯りが、遠い海の向こうへと続いている。

 ロンドンも、広島も、この光の延長線上にある。

 私はアップルパイを一口だけ食べた。毒を抜いたとしても、きっとこの味は美しいはずだった。

 それが、少しだけ悔しかった。

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