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南京町の悪役令嬢は、高級菓子の毒(マトリ)を嗅ぎ分ける  作者: 水前寺鯉太郎
第1部 悪役令嬢は名探偵

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第2話:チョコレートの泥濘と、野良犬の嗅覚

 神戸県警本部、あるいは所轄の薄暗い取調室を想像していた私の予想は、半分外れ、半分当たった。

 場所は御影家が所有する迎賓館の一室。だが、目の前に座る男が醸し出す空気は、重厚なペルシャ絨毯やアンティークの調度品には絶望的なまでに似合わなかった。

「……で? 御影グループの令嬢サマが、南京町の路地裏で売人を関節技でキメてたって? 冗談キツいぜ、お嬢」

 ギチリ、……。

 男は、ヨレヨレのトレンチコートのポケットから取り出した乾燥スルメを、無遠慮に奥歯で噛み締めた。繊維が千切れる鈍い音とともに、部屋に強烈な磯の香りとヤニの匂いが充満する。

 狗巻陣いぬまき じん。兵庫県警・薬物銃器対策課の刑事だと名乗ったその男は、無精髭の奥の鋭い三白眼で私を値踏みしていた。

「正当防衛ですわ。それに、彼が粗悪な合成麻薬ヤクを売り捌いていたのは事実でしょう?」

「あア。おかげで署はテンテコ舞いさ。だがな、あの売人が吐いた供述が引っかかってね。『女子高生に、隠し味の揮発油の匂いを嗅ぎ当てられた』ってな」

 狗巻はクチャクチャと音を立ててスルメを咀嚼しながら、不敵に笑った。

警察犬うちのイヌより鼻が利くお嬢様なんて、俺ァ聞いたことがねえ。……あんた、本職こちらがわの匂いがするぜ」

「失礼な。わたくしはただ、美味しいお菓子を静かな環境で楽しみたいだけの、か弱き学生ですのよ」

 私はティーカップを持ち上げ、ダージリンの芳香で彼の放つ悪臭を中和した。

 この男、ただの刑事ではない。視線の動かし方、懐への手の入れ方――かつてロンドンで私と共に死線を潜った、潜入捜査官と同じ「泥水を啜ってきた狂犬」の目をしている。

「か弱いねェ。……なら、その神の舌で、こいつの味見を頼めないか?」

 狗巻は、保冷バッグから白いケーキ箱を取り出し、大理石のテーブルに置いた。

「あるガサ入れで押収したブツだ。神戸の山の手にある、会員制の高級洋菓子店の新作らしい」

 箱を開けると、黒漆のように艶やかなチョコレートで覆われたホールケーキが姿を現した。

 ザッハトルテ。ウィーン発祥の、チョコレートケーキの王様。

「既存のどの麻薬データとも一致しねえ。広島のクソ学園の周辺で出回ってる『新種』って噂もあるが……どうにもシッポが掴めない」

 狗巻は、ケーキの横に添えられた銀のフォークを指差した。

「……毒見をさせるなんて、正気の沙汰ではありませんわね」

 私は制服のポケットから、いつもの『オレオクッキー』を取り出した。

 パキッ、ボリボリッ。

 乾いた破砕音が脳内に響く。ジャンクなカカオの風味で舌をリセットする。私の脳を「令嬢」から「捜査官」へと切り替えるための、冷徹なスイッチだ。

「この美しい黒を汚す不届き者がいるのなら、見過ごすわけにはいきませんわ」

 フォークを入れ、ザッハトルテの鋭角を切り分ける。

 パリッ……。

 表面を覆う硬いチョコレートのグラズュールが割れ、しっとりとしたスポンジと、血のように赤茶けたアプリコットジャムが顔を出した。私はそれを一口、ゆっくりと口腔へ招き入れた。

(……!)

 ヌチャッ、……。

 濃厚なカカオが舌に絡みつき、アプリコットの酸味が鼻へ抜ける。だが、その甘美な泥濘の奥。嚥下する瞬間に、それは潜んでいた。

「……鉄の味」

 その言葉を口にした瞬間、意識の底で何かが疼いた。

 鉄の味を、私は知っている。アスファルトに頬をつけて、それだけを感じながら死んでいったあの夜。そして——あの子も、最後にこれを飲み込んだのだろうか。

 私は静かに、その思考を呑み込んだ。今は、駄目だ。

「鉄?」

 狗巻の声で、意識が戻る。

 私は目を閉じ、口腔内のすべての神経を集中させた。ロンドンの記憶が、前世のデータベースが、猛烈な勢いで検索を始める。

「ええ。アプリコットの酸味で巧妙に隠蔽マスキングされていますが、微量の金属イオンの味がします。それに、このスポンジ。**噛むたびにザリザリと、不自然に奥歯を削る感触……。**極めて微細なガラス質の粉末が練り込まれている」

「ガラス粉……? まさか、胃腸を傷つけて毛細血管から直接成分を吸収させる気か……!」

 狗巻の声の色が変わった。刑事の顔から、麻薬を狩る猟犬の顔へ。

「その通りですわ。この金属臭と浸透圧を利用する新種の化学式……。ロンドンのカルテルが開発を頓挫した『ブラッド・マリア』の改良型ね。このザッハトルテを作ったパティシエは、ただの料理人ではありません。生体への薬物吸収率を極限まで計算できる、超一流の『化学者ケミスト』ですわ」

「……」

 狗巻はしばらく押し黙り、やがて大きなため息をついて頭を掻き毟った。

「科捜研の連中が三日徹夜して出せなかった答えを、一口で出しやがった。……やっぱりあんた、ただの女子高生じゃねえな」

「あら、ただの悪役令嬢ですわよ。それに、こんな悪趣味なケーキ、私のティータイムには相応しくありませんわ」

 私はダージリンを一口含み、口内の不快な鉄の味を洗い流した。

「で、どうするんだい、お嬢。このまま警察に協力してくれるか?」

「勘違いなさらないで。わたくしは警察に協力などいたしません。ただ……私の街に、私の美学に反する『毒』をばら撒く連中を、個人的に片付けたいだけですの」

 ロンドンで私を殺した黒幕の影が、この甘い泥濘の奥に沈んでいる。ならば、その泥を全て掬い出し、太陽の下に引きずり出すまでだ。

「へェ。そりゃ頼もしいこって」

 狗巻は立ち上がり、ヨレヨレのコートを羽織り直した。

「会員制洋菓子店『黒薔薇シュヴァルツ・ローゼ』。このケーキを出した店だ。場所は北野の異人館街。……お嬢様の顔パスなら、裏口キッチンまで辿り着けるかもしれねえな」

「ええ、任せてちょうだい。……ところで狗巻刑事」

「あ?」

「次に来る時は、そのスルメの匂い、どうにかしてくださらない? わたくしの家の絨毯に染み付いたら、クリーニング代を請求しますわよ」

「……善処するよ、お嬢」

 狗巻が去った後、私は一人、残されたザッハトルテを見つめた。

 黒いチョコレートの奥に、広島の学園、そしてかつての仇敵の気配が渦巻いている。

 私はフォークを置き、ただ静かにダージリンを飲み干した。

 冷めたカップの底に、何も残っていなかった。

「さて。……反撃のティータイムといきましょうか」

(第2話・了)

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