第12話:震える警鐘(ポテトチップス)
尼崎のセーフハウス。
マックスの様子がおかしいことに気づいたのは、昨夜のことだった。
「クゥ、……ヒィン」
あんなに勇敢に毒を嗅ぎ当てていたマックスが、頻繁に鼻を鳴らし、私の足元で震えている。食欲もなく、大好きなプレッツェルにさえ目を向けない。
私はしゃがみ込み、その小さな鼻に触れた。熱い。そして、鼻孔の周りが、微かに赤く爛れている。
(……これは、嗅覚の疲労ではありませんわ。……尼崎の空気に混じった何かが、あなたの繊細な器官を内側から焼いている)
新種の毒が、もうここまで来ている。
「……少し、休んでいなさい。マックス」
私はオレオを一枚、静かに噛み砕いた。
バリッ、ジャリッ……。
黒い苦味が思考を研ぎ澄ます。マックスを動かすわけにはいかない。だが、今夜、黒いセダンがまたセーフハウスの周囲を流している。鼻が必要だ。
その時、ドアをノックする音がした。
開けると、そこにピエールが立っていた。まだ顔色は悪いが、昨日より幾分か目に力がある。その腕に、小さな抱き枕のようなものを抱えている。
「……無理をしてはいけませんわよ、ピエールさん。まだ退院したばかりでしょう」
「わかっています。でも……これを、あなたに預けたくて」
彼が差し出したのは、大きな瞳を持つ、白いチワワだった。全身が細かく震えている。
「フランスから一緒に来た子です。名前は、ダリア。……私が入院している間、一人にさせてしまっていた」
ピエールは少し目を伏せた。
「あなたのマックスが具合を悪くしていると、看護師から聞きました。……ダリアは、私がパティシエとして働いていた頃から、厨房の異変を嗅ぎ分けてくれていた子です。……役に立てるかもしれない」
私はダリアを受け取り、その小さな体を見つめた。
震えている。でもその瞳は、怯えではなく、何かを真剣に見ている目だ。
「……ダリア。あなたのその『震え』が、真実を捉えるアンテナになることを期待していますわよ」
私は一袋の『ポテトチップス』を開けた。
パリッ、……カサカサ。
立ち上るジャガイモの香ばしさと、攻撃的なまでの塩分。一枚を指先で摘み上げ、ダリアの鼻先に近づける。
ダリアは鼻をヒクつかせ、次の瞬間——私の手元ではなく、窓の外に向かって鋭く吠えた。
「キャンッ! ワンワンッ!」
窓の外。そこには、昨夜と同じ黒いセダンの影。
(……やはり、来ていますわね)
私はポテトチップスをバリボリッと力強く噛み砕き、塩の粉を指先で弾いた。
オレオの黒と、ポテトチップスの金。苦味と塩気。マックスとダリア。
二つが揃った。
「ピエールさん。……今夜は、ここを離れないでくださいまし」
私はマックスの傍に膝をつき、その耳元で静かに言った。
「……少しだけ、待っていなさい。すぐ戻りますわ」
マックスが、弱々しく尻尾を一度だけ振った。
「……さて、ダリア。初仕事ですわよ。……あの黒い車の主を、丁寧に『検食』して差し上げましょうか」
(第12話・了)




