表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
南京町の悪役令嬢は、高級菓子の毒(マトリ)を嗅ぎ分ける  作者: 水前寺鯉太郎
第2部『ロンドン・壊滅・ティーパーティ編』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/20

第11話:尼崎の甘い死(ショートケーキ)

尼崎。

 工業地帯の煙突が吐き出す煙と、湿った潮風が混じり合う街。

 次の目的地へ向かうはずだった私は、出発を急遽延期し、この混沌とした街の路地裏に立っていた。

「……あら。この空気、重油の臭いの裏に、微かに『バニラエッセンス』の人工的な甘さが混じっていますわね」

 私は、いつもの『オレオクッキー』をポケットから取り出した。

 パキッ、ジャリジャリ……。

 黒い粒子の暴力的な苦味が、尼崎の湿った空気を脳内で強引に濾過していく。

 事件は、古びたアパートの一室で起きた。

 被害者は、来日五年目のフランス人パティシエ、ピエール・ルブラン。

 司法解剖の結果、彼の胃の中から、未消化の『ショートケーキ』が発見されたという。だが——搬送先の病院から、今朝、一報が入った。奇跡的に、意識が戻った、と。

「……マックス。あなたの『鼻』が、この甘い死の真相を嗅ぎ当ててくれるかしら?」

 マックスは、私の足元で小さく鼻を鳴らし、アパートの階段を駆け上がった。

 部屋の中は、荒らされた形跡はなく、テーブルの上には、食べかけのショートケーキが一つ、ポツンと置かれていた。

 ペリッ、……。

 私は、ケーキのフィルムを剥がし、その美しい層を見つめた。

 純白の生クリームと、鮮やかな赤色のイチゴ。完璧なコントラスト。

 私は、それを一口、口腔内へと招き入れた。

 フワッ、……ヌチャ。

 口当たりの良い生クリームが溶け、しっとりとしたスポンジが顔を出す。

 ジュワッ、……。

 噛み締めた瞬間、イチゴの酸味が溢れ出した。……が、その甘美な世界に、私は冷徹な「毒」の気配を感じ取った。

(……! この後味。……『ブラッド・マリア』の原料、無水酢酸の匂いですわ)

 私はダージリンで口内を洗浄し、静かに息を吐いた。

 広島の教授を潰した。ラボも、製造ラインも、全て狗巻刑事たちが押さえた。それでもまだ、この毒は流れている。

 源流は、もっと上にある。

 病院は、アパートから歩いて十分だった。

 個室のベッドに横たわるピエールは、痩せて、顔色が悪く、それでも私が部屋に入ると薄く目を開けた。フランス語訛りの日本語で、彼は言った。

「……あなたが、マトリの……?」

「ええ。……少しだけ、お話を伺えますか」

 私は椅子を引き、ベッドの傍に座った。マックスが静かに足元に伏せる。

 ピエールはしばらく天井を見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。

「……あのケーキは、私が作ったものではありません。……ある日、�厨房に見知らぬ箱が届いた。差出人は……『ル・プロフェスール』。フランス語で、教授、という意味です」

 私の指先が、膝の上で静かに止まった。

「その教授から、他に何か……連絡はありましたか?」

「一枚だけ、カードが入っていました。……『美しい毒は、美しい器に入れろ』と」

 美しい毒は、美しい器に入れろ。

 その言葉の質感を、私は知っている。広島の教授と同じ思想。同じ美学。でも広島の教授は、既に狗巻刑事が押さえている。

 つまり——この命令を下したのは、広島の教授ではない。さらに上の人間だ。

「ピエールさん。……そのカードは、今もありますか?」

「……警察が、持っていったはずです。でも……」

 彼は力なく笑った。

「……私には、もう一つ、覚えていることがあります。そのカードの裏に、小さく書いてあった言葉。……『For Karna』」

 私は、息が止まる感覚を覚えた。

 カルナ。

 その名前が、見知らぬフランス人パティシエの口から出てくるはずがない。

 私は表情を動かさなかった。動かせなかった。ただ、膝の上の指先が、白くなるほど握り締められていくのを、自分で感じていた。

「……その言葉に、心当たりは?」

「いいえ。……ただ、美しい名前だと思いました。……サンスクリット語で、慈悲、という意味でしょう?」

 慈悲。

 私に慈悲を見せなかった人間が、その名前を使っている。

 病院を出ると、夕暮れの尼崎が、工場の煙に染まって赤かった。

 マックスが静かに寄り添う。

 私はしゃがみ込み、その小さな頭に手を置いた。指先がまだ、少し震えていた。

「……マックス。……敵は、カルナの名前を知っていますわ」

 声に出したのは、マックスにだけ聞こえる声だった。

 それだけで十分だった。

「……さて。ピエールさんに、もう一度会いに行きましょうか。……あの方には、まだ聞くべきことがありますわ」

(第11話・了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ