第11話:尼崎の甘い死(ショートケーキ)
尼崎。
工業地帯の煙突が吐き出す煙と、湿った潮風が混じり合う街。
次の目的地へ向かうはずだった私は、出発を急遽延期し、この混沌とした街の路地裏に立っていた。
「……あら。この空気、重油の臭いの裏に、微かに『バニラエッセンス』の人工的な甘さが混じっていますわね」
私は、いつもの『オレオクッキー』をポケットから取り出した。
パキッ、ジャリジャリ……。
黒い粒子の暴力的な苦味が、尼崎の湿った空気を脳内で強引に濾過していく。
事件は、古びたアパートの一室で起きた。
被害者は、来日五年目のフランス人パティシエ、ピエール・ルブラン。
司法解剖の結果、彼の胃の中から、未消化の『ショートケーキ』が発見されたという。だが——搬送先の病院から、今朝、一報が入った。奇跡的に、意識が戻った、と。
「……マックス。あなたの『鼻』が、この甘い死の真相を嗅ぎ当ててくれるかしら?」
マックスは、私の足元で小さく鼻を鳴らし、アパートの階段を駆け上がった。
部屋の中は、荒らされた形跡はなく、テーブルの上には、食べかけのショートケーキが一つ、ポツンと置かれていた。
ペリッ、……。
私は、ケーキのフィルムを剥がし、その美しい層を見つめた。
純白の生クリームと、鮮やかな赤色のイチゴ。完璧なコントラスト。
私は、それを一口、口腔内へと招き入れた。
フワッ、……ヌチャ。
口当たりの良い生クリームが溶け、しっとりとしたスポンジが顔を出す。
ジュワッ、……。
噛み締めた瞬間、イチゴの酸味が溢れ出した。……が、その甘美な世界に、私は冷徹な「毒」の気配を感じ取った。
(……! この後味。……『ブラッド・マリア』の原料、無水酢酸の匂いですわ)
私はダージリンで口内を洗浄し、静かに息を吐いた。
広島の教授を潰した。ラボも、製造ラインも、全て狗巻刑事たちが押さえた。それでもまだ、この毒は流れている。
源流は、もっと上にある。
病院は、アパートから歩いて十分だった。
個室のベッドに横たわるピエールは、痩せて、顔色が悪く、それでも私が部屋に入ると薄く目を開けた。フランス語訛りの日本語で、彼は言った。
「……あなたが、マトリの……?」
「ええ。……少しだけ、お話を伺えますか」
私は椅子を引き、ベッドの傍に座った。マックスが静かに足元に伏せる。
ピエールはしばらく天井を見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。
「……あのケーキは、私が作ったものではありません。……ある日、�厨房に見知らぬ箱が届いた。差出人は……『ル・プロフェスール』。フランス語で、教授、という意味です」
私の指先が、膝の上で静かに止まった。
「その教授から、他に何か……連絡はありましたか?」
「一枚だけ、カードが入っていました。……『美しい毒は、美しい器に入れろ』と」
美しい毒は、美しい器に入れろ。
その言葉の質感を、私は知っている。広島の教授と同じ思想。同じ美学。でも広島の教授は、既に狗巻刑事が押さえている。
つまり——この命令を下したのは、広島の教授ではない。さらに上の人間だ。
「ピエールさん。……そのカードは、今もありますか?」
「……警察が、持っていったはずです。でも……」
彼は力なく笑った。
「……私には、もう一つ、覚えていることがあります。そのカードの裏に、小さく書いてあった言葉。……『For Karna』」
私は、息が止まる感覚を覚えた。
カルナ。
その名前が、見知らぬフランス人パティシエの口から出てくるはずがない。
私は表情を動かさなかった。動かせなかった。ただ、膝の上の指先が、白くなるほど握り締められていくのを、自分で感じていた。
「……その言葉に、心当たりは?」
「いいえ。……ただ、美しい名前だと思いました。……サンスクリット語で、慈悲、という意味でしょう?」
慈悲。
私に慈悲を見せなかった人間が、その名前を使っている。
病院を出ると、夕暮れの尼崎が、工場の煙に染まって赤かった。
マックスが静かに寄り添う。
私はしゃがみ込み、その小さな頭に手を置いた。指先がまだ、少し震えていた。
「……マックス。……敵は、カルナの名前を知っていますわ」
声に出したのは、マックスにだけ聞こえる声だった。
それだけで十分だった。
「……さて。ピエールさんに、もう一度会いに行きましょうか。……あの方には、まだ聞くべきことがありますわ」
(第11話・了)




