第10話:終わりのティータイム(たけのこの里)
広島純真学院、旧校舎の地下。
湿ったコンクリートの階段を下りた先には、外の世界の喧騒が嘘のような、静謐な白亜のラボが広がっていた。最新鋭の遠心分離機が立てる**ウィィィィン……**という低温の唸り。
その中央、特注のガラストップテーブルに、一人の男が座っていた。
「……よく来ましたね、御影瑠璃。あるいは、アリス・カートレット」
初めて肉眼で捉えた「教授」は、驚くほど端正な顔立ちの老紳士だった。だが、その指先は劇物で変色し、瞳の奥には底なしの狂気が渦巻いている。
「歓迎の品を。……『きのこ』よりは、こちらのクッキー生地の方が、毒の馴染みが良いのですよ」
差し出されたのは、皿に盛られた『たけのこの里』。
私は無言で一粒、指先で摘み上げた。
パキッ、ジャリリッ。
いつものオレオで舌をリセットし、私はその「たけのこ」を口腔内へ招き入れた。
カリッ、サクサクッ。
マイルドなチョコレートが溶け、香ばしいクッキー生地が軽快な音を立てて砕ける。
ジュワッ、……。
だが、その安らぎを誘う食感の直後、脳を直接殴るような、暴力的な「快楽の電気信号」が走った。
(……! 超高純度の『ブラッド・マリア』。……クッキーの空隙を利用して、気化吸入と経口摂取を同時に成立させていますわね)
「……素晴らしいレシピですわ。……人を廃人にするための、究極の『甘やかし』……。ですが、教授。……このお菓子には、決定的な欠けがありますわよ」
私は、口内の毒を飲み込まず、ポケットから取り出したオレオの袋をテーブルに叩きつけた。
バサァッ!
「欠け、だと?」
「ええ。……あなたの作る毒(お菓子)には、食べる者への『敬意』が足りませんの。……ただ依存させ、支配するためだけの道具。……それは、お嬢様のティータイムには、あまりに下品ですわ」
私は、痺れ始めた脚を強引に動かし、テーブルを蹴り飛ばした。
ガシャーン!
砕け散るガラス。私は、驚愕に目を見開く教授の胸ぐらを掴み、その細い喉元へ、令嬢の如くしなやかな抜き手を叩き込んだ。
「あがっ……! 馬鹿な、その濃度を摂取して、なぜ動ける……!」
「……わたくしの五感は、前世の血(鉄錆び)と、今世の泥で鍛え上げられていますの。……あなたの『甘い罠』など、オレオの苦味で十分、中和可能ですわ!」
私は、教授を床に組み伏せ、膝でその背を固定した。
背後から、マックスが鋭く吠え、地下ラボの隠し扉の奥――そこに隠されていた、大量の完成品(毒菓子)を嗅ぎ当てる。
「……言いなさい。……あなたの背後にいる、ロンドンの『あの方』は、今どこにいますの?」
「……ふ、ふふふ。……終わったと思うなよ、小鳥さん。……広島は、ただのラボに過ぎない。……『本場』のティータイムは、これから始まるのだから……」
教授が口から泡を吹いて気絶するのと同時に、狗巻刑事率いる県警の突入班が、地下へと雪崩れ込んできた。
喧騒が収まり、ラボに静寂が戻った頃、私は壁に背を預けて目を閉じた。
終わっていない。教授はそう言った。でも今日、この場所で作られていた毒は止まる。ここから先、この毒で倒れる人間は、少なくとも一人減る。
カルナには、間に合わなかった。
それは変わらない。どれだけ敵を追い詰めても、あの夜は取り戻せない。
でも——その名前を胸に持ったまま、私はここまで来た。それだけは、本当のことだ。
マックスが静かに私の足元に寄り添い、小さく鼻を鳴らした。
私はその頭に、一度だけ手を置いた。
一週間後。
広島の空は、驚くほど青かった。
御影家の車が、広島を離れる前に、私は一人、瀬戸内海を見下ろせる高台に立ち寄った。マックスを抱いたまま、しばらく何も言わずに海を見ていた。
「……お嬢。次はどこへ行くつもりだ?」
背後から、狗巻刑事の声がした。スルメの匂いが、潮風に混じる。
「さあ。……毒の源流は、まだ上流にありますわ」
「そうか。……まあ、何かあったら連絡しろ。……クリーニング代は、俺が払ってやる」
私は振り返らなかった。でも、少しだけ口の端が上がったのを、自分で感じた。
ポケットから、一枚のオレオを取り出す。
サクッ、ボリボリッ。
漆黒のビスケットの苦味が、舌の上で静かに広がった。
「……さて。次の『ティータイム』の場所を、探しに行きましょうか」
完璧なスコーンというものは、狼が大きく口を開けた時のように、横一線に美しく腹が割れていなければならない。
その言葉を、私はまだ胸の中に持っている。
カルナ。
あなたに間に合わなかった私が、次に間に合うために。
(第1部・完)




