第6話:【後編】『巫女さんは、お腹が空いている』
空になった石の皿を前に、シアは小さく、だが深い充足の溜息を漏らした。
数百年もの凍てつくような眠りの後、最初に口にしたのが、この異邦の男が作った瑞々しい野菜と、温かな魔法のパンであったこと。それは彼女の強固な警戒心を、根底から揺さぶるに十分な衝撃だった。
「……美味しかった。本当に。こんな穏やかな食事が、まだこの世界に残されていたなんて」
シアの声は、先ほどまでの刺々しさが嘘のように柔らかい。彼女は無意識に、自分の頬に残っていたパンの粉を指先で拭った。
レンはその様子を眺めながら、満足げに喉を鳴らした。
「ははっ! だろ? 腹が満たされれば、人間そう簡単に絶望なんてできねえよ。さて、落ち着いたところで改めて聞かせてくれ。シア、お前の知ってる『この島の真実』ってやつをさ」
レンの問いかけに、シアはふと顔を上げた。
拠点である『儀式の間』の天窓からは、紫紺へと染まりゆく夜空が覗いている。レンが修復した偏光魔法膜が、雲海に沈む夕日の残光をプリズムのように分散させ、広間を幻想的な色彩で彩っていた。
「……この島は、死にゆく群島の一つです。かつて、空を埋め尽くすほどに浮かんでいた島々は、魔力の枯渇とともに砂となって消えていきました。それが、万物を無に還す『風化の風』の正体。私の目覚めは、本来なら島が墜落し、すべてが砂に還る瞬間に立ち会うための儀式だったはずなのです」
シアの碧色の瞳に、夜の翳りが差す。
彼女の記憶にあるのは、一つ、また一つと雲海の下へと消えていく隣島たちの末路。そして、自分たちの代で歴史が途絶えるという、呪いにも似た宿命だった。
「なのに、なぜ。あなたが来てから、この島には死の気配がありません。風化の砂も止まり、あんなに冷たかった石の床が、今はこんなに温かい魔力の鼓動を刻んでいる……」
シアの問いに、レンは不敵に笑い、天井の巨大な梁を見上げた。
「単純な話だ。メンテナンス不足でこの絶景を落とすには、あまりにも惜しすぎるだろ?」
「……メンテナンス、不足?」
「ああ。お前らが『風化』と呼んでいる現象の正体は、魔力循環の不備による分子結合の崩壊だ。要は、島を浮かせるエネルギーがうまく回らずに、物質を繋ぎ止める力が弱まってるだけなんだよ。だから、俺が地下の心臓部を叩き直して、正常にエネルギーを循環させてやった。今のこの島は、一粒の砂にもさせない。俺が保証する」
断言するレンの言葉に、迷いは一切なかった。
神秘的な伝承や絶望的な宿命を、ただの『設備不良』として切り捨て、技術でねじ伏せる男。シアはそのあまりにも非常識な明るさに、呆れを通り越して、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
その時だった。
広間の隅から、淡く光る小さな粒が一つ、また一つと浮かび上がってきた。
「……っ! 精霊様……?」
シアが息を呑む。
それは、魔力が極めて清浄で安定した場所にしか現れないとされる光の粒――**妖精**だった。
どこからともなく集まってきた妖精たちは、レンとシアを囲むように緩やかな輪を描いて舞い始める。その淡い光が、鏡のように磨かれた石畳に反射し、まるで二人が無限の星空の真ん中に立っているような錯覚を抱かせた。
「うおおっ、天然のイルミネーションじゃん! 綺麗だな、これ。正直、この光景を拝むためだけに島を直したって言っても、お釣りが出るくらいだ!」
レンは子供のように目を輝かせ、目の前を横切る妖精に手を伸ばした。
シアはその横顔を見つめ、不意に、自分の頬を伝う熱いものに気づいた。
それは、数百年もの間、誰にも見せることのなかった、安堵と希望の涙だった。
「……あなたは、本当に変な人ですね。賊だなんて疑って、すみませんでした」
「気にするな。不審者なのは見た目だけだ。これからはこの島を、最高の空の上リゾートに作り変えてやるからな。楽しみにしてろよ、シア!」
雲海の向こうに広がる無限の星々と、妖精たちが奏でる静かな光の舞。
絶望の巫女と、型破りなエンジニア。
二人の間に流れるのは、もはや敵対心ではなく、新しい世界の始まりを告げる優しい夜風だった。
レンは妖精の光に照らされたシアの笑顔を横目に、次なるDIY計画――『最高の露天風呂建設』への野望を、密かに、だが熱く燃やすのであった。




