第1話:『目覚めたら絶景の孤島。とりあえず、空気がうまい!』
視界が真っ白だった。
と言っても、吹雪の中にいるわけじゃない。それは、どこまでも続く真っ新な画用紙のような、あるいは完璧に洗浄されたクリーンルームのような、混じりけのない「白」だ。
「……ん、……ああ。そうか。徹夜明けか」
九条蓮は、重い瞼をこじ開けながら、そんな独り言をこぼした。
脳裏に浮かぶのは、納期の迫った化学プラントの配管設計図。複雑に絡み合うパイプ、計装信号、そして耳を塞ぎたくなるような上司の怒号。
だが、今の耳に届くのは、驚くほど静かな風の音だけだった。
「……あれ?」
身体を起こそうとして、手のひらに硬い感触を覚える。
そこは、見慣れたオフィスチェアの上でも、自宅の煎餅布団の上でもなかった。
白く、滑らかに磨き上げられた石畳。それも、ただの石じゃない。うっすらと幾何学的な紋様が彫り込まれ、微かに燐光を放っている。
「……何だこれ。大理石? いや、この硬度と質感、セラミックに近いな……。って、うわっ!?」
レンが立ち上がり、周囲を見渡した瞬間、心臓が跳ね上がった。
そこは、空の上だった。
見上げる空は、吸い込まれるほどに深い群青色。
そして視線を下げれば、どこまでも、どこまでも続く純白の雲海。
レンが立っているのは、直径百メートルほどもある巨大な石造りの円形広場だった。それが、まるで重力という概念を忘れたかのように、雲の海にぷかぷかと浮かんでいる。
「空……浮いてる? 島が? マジかよ……」
普通なら、ここでパニックに陥るだろう。
だが、レンという男は少しばかり……いや、かなり「ズレて」いた。
彼は現代日本において、重度のメカ・ガジェットオタクであり、複雑なシステムを愛するプラントエンジニアだった。
彼は大きく息を吸い込む。
肺の隅々にまで行き渡る、澄み切った、それでいて濃密な魔力を含んだ空気。
「……最高じゃないか」
口をついて出たのは、歓喜の言葉だった。
満員電車はない。鳴り止まない電話もない。深夜まで続く進捗会議もない。
そこにあるのは、見たこともないロストテクノロジーが詰め込まれた「静かなる絶界」。
「これ、孤独っていうか……趣味の邪魔が入らない最高環境だろ!」
レンは拳を握り、目の前の状況を肯定した。
その時、脳内に無機質な、しかし確かな「声」が響く。
『――対象の適合を確認。ギフト【修復・最適化】を定着させます』
『――世界理へのアクセス権限を一部付与。ようこそ、絶界の管理職へ』
同時に、右手の甲に熱い感覚が走り、奇妙な紋章が刻まれた。
レンはその紋章を見つめ、不敵に、そして楽しげに笑った。
「ギフトね。何だかよく分からんが、『直して改造しろ』ってことだろ? 俺の本業じゃないか」
彼はさっそく探索を開始した。
広場の中央には、ひときわ巨大な、神殿のような建物が鎮座している。セクション4の資料にあった「儀式の間」だ。
だが、その美しい石造りの壁面には、無数のひび割れが走り、至るところに砂状の「風化」が見られた。
「雨が降っている気配はないのに、この風化の仕方は異常だな……。物理的な摩耗っていうより、分子間の結合が弱まっている感じか?」
観察眼は既にエンジニアのそれだ。
レンは神殿の影に、山積みにされた「ガラクタ」を見つけた。
そこには、真鍮のような輝きを持つ歯車、奇妙な形状のピストン、そして錆びついた金属の装甲板が転がっている。
その中でも、ひときわレンの目を引いたものがあった。
「お前……なんだ。すごく、いい曲線してるじゃないか」
それは、壊れた寸胴鍋に手足が生えたような、丸っこいロボットの残骸だった。
頭部と思わしき部分にはレンズが一つ。胴体からは蒸気機関の排気筒のようなものが突き出している。
完全に沈黙し、右腕は付け根から脱落していたが、その造形美はレンの「メカオタク魂」を直撃した。
「スチームパンク風の多目的ゴーレムか。たまらん……。よし、記念すべき初仕事はお前に決めた!」
レンは右手を、そのゴーレムの残骸にかざした。
脳裏に、そのメカニックの「設計図」が浮かび上がる。どこが摩耗し、どこに魔力回路の断線があるのかが、手に取るように理解できた。
「リペア……いや、せっかくだ。少し『最適化』も混ぜてやる」
レンの紋章が青白く輝く。
体内のエネルギー――魔力が、急速に吸い取られていく感覚。
「おお、結構持っていかれるな……。だが、この感触、悪くない!」
バチバチと火花が散り、バラバラだったパーツが磁石に吸い寄せられるように組み上がっていく。
欠けていた歯車が新たに形成され、ひしゃげていた装甲が、滑らかな流線型へと再構築されていく。
仕上げに、レンは自分の魔力を「核」となる部分に直接流し込んだ。
「目覚めろ、相棒。最初の仕事は、俺の荷物持ちだ!」
――プシューッ!!
激しい蒸気の噴射音。
ゴーレムの単眼に、ポッと温かみのあるオレンジ色の光が灯った。
それはレンの周りを、短い手足をバタつかせながら一回転すると、嬉しそうに蒸気を吐き出した。
「プシュー! プシュー!!」
「ははは! 可愛いな。今日からお前は『ポッド』だ。よろしくな、ポッド」
レンがその頭(鍋の蓋のような部分)を撫でると、ポッドは満足げに「プシュ……」と小さな音を鳴らして、レンの背後にぴたりと寄り添った。
だが、喜びも束の間だった。
急激に魔力を消費した代償が、レンを襲う。
「……あ、やべ。これ、一気に使い切ったか……」
視界がぐらりと揺れる。
これが制約――「強制休眠」だ。
「ポッド……あとは、よろしく。できれば、柔らかい場所で……寝かせて……」
ドサッ、とレンはその場に倒れ込んだ。
深い、深い眠りの中へ。
そんな主人の姿を見て、ポッドは一瞬だけレンズをチカチカと点滅させたが、すぐに力強い動作でレンを抱え上げた。
小さな体躯に似合わぬパワー。レンが「最適化」した際に付与した、高出力のアクチュエータが唸りを上げる。
ポッドは、主人が風邪を引かないよう、そして「絶景」が見えるよう、儀式の間にある一番大きな台座へと彼を運び、丁寧に寝かせた。
雲海に沈む夕日が、一人と一台の影を長く伸ばしていく。
こうして、絶界の浮遊島におけるレンの自由気ままな開拓生活は、盛大な「昼寝」から幕を開けたのであった。




