地獄の修行
執政官バーンは、執務室の上等な椅子に深く腰を下ろした。
「西の魔女の下に……竜の祝福、か」
チリン、とハンドベルを鳴らす。
侍女がすぐに現れたが、どこか怯えたように視線を伏せている。
「すまない。簡単な食事と、何か飲むものを」
短く告げると、侍女は小さく震えながら「畏まりました」と答え、足早に部屋を出ていった。
「……そんなに怖い顔をしていたか」
バーンは頬を掻きながら呟く。
鏡のない執務室では、自分の表情がどれほど強張っているのか確かめようもない。
ヘイシンと対峙して以来、ずっとこうだ。
「ファル・ゼナン……か」
カタリ、と執務机の引き出しを開ける。
中には古びた便箋が一通。
差出人の名は──「リリーナ・マーキュリー」。
「……何を考えている。愚妹よ」
その声は、怒りでも呆れでもなく、どこか哀しみに濡れていた。
ほんの一瞬、泣き出しそうな表情すら浮かぶ。
バーンは便箋をそっと戻し、引き出しを閉じる。
「確認するべきだろうな……“竜血を浴びた少年”とやらを」
静かな独白が、広い執務室に落ちた。
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「兄様!そんな…あぁ…兄様!」
血濡れた少年に銀髪の少女が近寄り倒れゆく兄を支える。
「だい…じょうぶ。にいちゃ…に、任せてお…け」
ゼェゼェと息を切らす少年。対峙するのは緑色の竜。
《そなたは何故立つ?何故矮小なその身で、私の前に何故立ちはだかる?》
憐憫に満ちた目を少年に向ける竜。
少年はグイッと”水薬”を飲み干し、槍を構える。
「お前が、お前である限り、俺は…俺は立ちはだかる!」
《なるほど…それがヒトである。か》
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「……あの声。まったく、縁起でもない」
たっぷりと寝汗をかいて、リリーナは自分のベッドから身を起こす。
窓の外の雰囲気から恐らく時間は真夜中だろう。
サイドテーブルに置いてあるカンテラに魔術で火を灯し、同じくサイドテーブルに置いてあった煙管を咥える。
ヒルルク草を乾燥させた煙草を詰め、魔術では無く、マッチで火を付ける。
部屋に紫煙が立ち上り、気持ちを落ち着かせてくれる。
「さて、と…どうしたもんか」
目が覚めてしまったので、明日からのゼナンの修行をどうするか?をもう一度考え直す。
竜眼の扱いが先か、魔術を覚えさせるのが先か、先に肉体を作りあげるべきか…
考え出すと止まらなくなる。あの小僧をあの男の様にするわけにはいかない。
あの男は一種の怪物だ。怪物を生み出すわけにはいかない。
大いなる力には大いなる意思を持たなければ。小僧の事だ、力に溺れる事は無いだろう。
だが意思に溺れる可能性はある。
力だけでも、意思だけでも駄目だ。
力と意思。その両方を持たせなければ…
「意思…ねぇ」
ふぅと煙を吐き出す。どこか自虐的に、どこか懲罰的に。
「あの小僧は基礎はかなり出来ている。……まったく、馬鹿弟子がしっかり育てたお陰だよ」
紫煙がゆらりと揺れ、リリーナの横顔を淡く照らす。
「よし。まずは“死なない程度に殺す”ところから始めるとするか。基礎があるなら、まあ大丈夫だろう」
なにかに吹っ切れたように、リリーナはカンテラの火を指先で消した。
明日の朝が、今から楽しみで仕方がない。
「さあ──泣いたり笑ったり出来なくしてやろうじゃないか。
それでも立ち上がるなら……本物だよ、坊主」
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どんな戦場でも必要なものがある。
敵を打ち滅ぼす武力か?強大な魔術か?統率力か?──いや、もっと根本的なものだ。
逃げ切る体力だ。
西の魔女が作り出したのは、巨大なアスレチック施設だった。
縄梯子を登り、吊り橋を渡り、壁をよじ登り、また走る。
一周およそ一キロに及ぶ地獄のコース。
ファルは今、五周目に入っていた。
「ほら、どうした?速度が落ちてるぞ?そんな鈍間足じゃ竜どころか角兎にも逃げられる。走れ、犬のように走れ!」
出発地点で優雅に茶菓子をつまみながら、リリーナが涼しい顔で激を飛ばす。
「クソ……ババァ……!」
滝のような汗を流し、肺を焼かれるように息を切らしながら、ファルは睨み返す。
「ほう、まだ元気なようだ……ならおまけだ」
リリーナが煙管でファルの姿をなぞる。
途端、ファルの体に重さが加わった。
重力魔法──無詠唱で、荷重は五倍。
「ぐぉ……ちょうど……軽いなって……思ってたんだよな……!」
強がりか、意地か。
骨が軋み、膝が笑いながらも、ファルは走り続ける。
我を張り、倒れまいと必死に。
十周ほどで、ファルの意識はぷつりと途切れた。
「ふむ……まあ、初日ならこんなもんか」
リリーナはふっと息を吹きかける。
温かな風のような魔力がファルを包み、彼は目を覚ました。
「さ、起きな坊主。続きといこうか」
状況が掴めずにキョロキョロと辺りを見回すファル。
リリーナは何でもないことのように続きを強要し、その眼は心底楽しそうだった。
「もちろん続きはするんだけどよ……」
不承不承と体を起こしながら、ファルは睨む。
「言っちゃ悪いが、こんな原始的なやり方で竜を倒せるのか?」
リリーナは煙管を咥え、紫煙を燻らせながら軽く受け流す。
「まずは基礎だ。何事も基礎が大事。基礎が疎かな奴は何をやらせても駄目だ。魔術も、武術も、考えることだって基礎が必要さ」
やれやれ、と肩をすくめて続ける。
「それにこんなもん準備運動みたいなもんさ。次は──小僧、お前の大好きな実戦の時間さね」
瞬間、空気が凍りついた。
リリーナから発せられる殺気が、肺に鉛を流し込まれたように重く、視界を狭める。
「今日はそうさね、初日だから……五分にしておこう」
「は?」
冗談だろ、と言いたかったが声が出ない。
「五分間、私がお前を殺しにいく。お前はあらゆる手段で逃げろ。立ち向かうのもありだがね……」
ゴウッ、と殺気がさらに純度を増す。
煙管の火が妖しく赤く光り、リリーナの唇の端が吊り上がる。
「おすすめはしないねぇ」
妖艶な笑みを浮かべ魔女は煙管を構え、魔力を込める。
相変わらず目の奥がまったく笑っていない…背中に一筋冷たいものが走ったような気がした。




