記憶の檻
新作も書いています。
これとはだいぶテイストが違いますがよろしければ読んで見てください
ミケルという名に心当たりはない。だがゼランの胸は乱れ、心臓が早鐘のように打ち、手足は震えた。ミケルの名とともに、あの“黒い竜”の影が脳裏に濃くよみがえる。
「はぁ……はぁ……」
呼吸は荒くなり、顔色が蒼白くなる。リリーナはただ静かに見つめていた。やがて、母が子をなだめるような口調で言う。
「限界かね。ゼラン、ゆっくりと息を吸いな」
額に手を当て、落ち着けるように、彼女は掌からゆっくりと魔力を流し込む。ゼランの頭に温かな魔力が浸透していった。
外では薪がはぜ、遠くで梟が鳴く。そんな暮れの音が、室内の空気をほどよく染める。
パチ、パチと火が弾ける音に混じって獣の叫びが静寂を断ち切った。
だが、その獣の咆哮は外からではない。ゼラン自身の喉から、まるで別の誰かに代わって発せられた声だった。
「落ち着きな坊主。大丈夫だ。アンタは獣じゃない。アンタは人間さ。まだ、大丈夫だ」
リリーナの声が耳朶を優しく揺らす。
魔力の温もりが、荒れた神経を包み込むように広がった。
そこで、断片がこぼれ落ちる――焚き火の周り、湯気の上がる鍋、ヒルルク草の香りと柔らかくほぐれるホロホロ鳥。
笑い声、手元に寄せられた皿。風景は一瞬鮮烈に現れ、すぐに霧の中へと溶けていく。
「……ミケル?ニーナ…?」
名前が、ゼランの唇の端から再度漏れた。
その瞬間、胸の奥に押し寄せる何かが激しく蠢き、次いで記憶の糸が一度切れたように風に消える。
涙が頬を伝い、声が詰まる。
だが次の瞬間、表情が急変した。怒気が顔を引き裂き、目は凶相を宿す。
「ヘイシン……ッ! ヘイシン!!! あの竜め!」
憎悪の声が、野営地に熱を撒き散らす。
リリーナは即座に介入する。
魔力が再び滲み出し、ゼランを包み込むように降り注いだ。
「落ち着け。まだ、その怒りは取っておけ。さ、落ち着くんだ」
ゆっくりと、しかし確実に。荒れた神経は波を鎮め、逆立った毛のような緊張が少しずつ緩む。
ゼランは震える声で言った。
「……クソバ、いや、リリーナさん。ありがとう……落ち着いた」
凶相はすり抜け、表情はもとの影を帯びたものへと戻る。
しかしリリーナの瞳は見透かしていた。彼の内側に沈殿した深く濁った影が、ただ消え去ったわけではないことを。
「いいや、落ち着いちゃいないね。アンタのそれは落ち着いたんじゃない。自分の心に落とし込んだんだ」
短く吐かれた独り言のような声。リリーナは、静かに続ける。
「それは……良い傾向とは言えない。だが、今のアンタにはそれしかないのだろうな」
ゼランの視線は遠く、氷のように冷えた決意に満ちていた。
憎しみを憎しみの奥底へ押し込み、怒りを己の核に焼き固める――その姿は、既に人のものではなく、何かしらの戦闘機構のように見えた。
「わかってる。俺もわかってるよ。だけど、今の俺にはこれしかない」
その瞳に宿る陰は深く、濁っていて、見る者に不安を残した。
リリーナは短く息を吐き、魔力の手綱をさらに引き締める。
彼は投げ出そうとしているのだ。
命も心も、すべてを投げ出す覚悟で抗おうとしているのだと、彼女は悟った。
そこにあるのは若さの暴走か、あるいは生き残るための冷たい剣か――どちらにせよ、それは危うい。
リリーナは瞳を細め、小さく笑った。
笑いは甘くも冷たくもあり、これから始まる試練を楽しむ者のものだった。
「わかっているならいいさ、さて、我が魔塔に戻るとしよう。明日からソイツとの付き合い方を教えてやる」
言葉は柔らかく、重かった。
ゼランは小さく頷き、焚き火の火を消した。
消えゆく炎に昏い瞳が揺らめいた。
その瞳は雄弁に物語っていた。
”竜”を殺す。と、奪われたものを奪い返す。と
その危うさに気が付かない振りをして、リリーナは腰を上げた。
次いでゼランも腰を上げ、二人、魔塔への家路についたのであった。




