月の鏡と雪と灯火
痛足川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立てるらし
太陽が目覚める直前。真夜中と大差ない明るさの午前六時四十分。冬は太陽もお布団から出るのに躊躇しているんだなあ、と鼻で笑う。私が中学校に着いて、ようやく東雲が目に映った。
昨日まで悩みに悩んだ修学旅行の出欠。他の人達には「行かない」なんて選択肢はきっとない。けれど、私がこの中学校に転校してきたのも少し前で、親しい友人もゼロ。一人取り残されていた私を救ってくれた同じ班の子達とも、ほとんど話したことはない。それにも関わらず最後の砦であった家族も、お母さんは「きっと楽しめるわよ」と楽観視。
誠に遺憾ですが私、竹ノ下弓月は転校から三ヶ月経っても、友達と呼べる子は一人もできなかったよ。ごめん、とうちゃん、かあちゃん。とどめに、笑顔を浮かべた姉二人の「お土産楽しみにしてる」の一言で、私は中学校の前に駐車してあった観光バスに乗り込んだ。
寝坊助の太陽も夜の闇に食われ、月が暗がりに顔を出した時分。
私の修学旅行一日目は、まもなく終わろうとしていた。私が所属する班の泊まる部屋から、大浴場に向かう道の回廊を班の四人は歩く。
この旅館は、全体が木でできており、私達の部屋も別荘の様なコテージだった。一つ一つの部屋が回廊で繋がっていて、その道は開放感ある空の下にある。山から吹き下ろす風が、歩く私の前髪を蹴り上げた。前髪は、ボクシングのサンドバッグみたいに風に殴られても煽られても、その場で耐えている。髪の毛に逃げてもらったら私も困ってしまう。
私達四人を、幾つもの星と月が見下ろす空は、図工の授業が終わった後の筆洗の様に重い色だった。
「夕飯めっちゃ美味しかったね! お刺身最高だった!」
私の前をスキップする班長の川波ちありが、くるりと振り返って爽やかな笑顔を見せる。川波さんとは、私が転入した日に少し話した以来、話したことはなかった。けれど、班を決める時に一人で余っていた私を同じ班に入れてくれた女の子だ。
川波さんは、短めの髪をシンプルに後ろで一つに結っていて、結んだところから髪がくるくると様々な方向を向いている。
「それな。あのブリとか、カニってここら辺で水揚げされたやつっしょ? 地産地消ってやつよね」
豊原秋子という女の子が、川波さんに同意する。両手で抱えた着替えやタオルに顎を置いているからか、アヒル口になっていてなんだか愛らしい。
行きのバスは隣の席がこの女の子、豊原さんで、会話の様なやりとりをした。会話の様に見えても実は会話ではなくて、一方的に豊原さんが私に話しかけてくれていただけ。
私の隣で、腰まで伸びた赤褐色の髪がふわりふわりと揺れる。弾む様に歩く豊原さんは、私の頭一つ分高い位置から私に話し掛ける。
「明日の朝ごはんはバイキングらしいよ! 今からテンション上がっちゃうわー」
「楽しみだね。でも、夕飯食べたばっかりだよ?」
「うち、食べること好きだからさ」
「に」を発音するときの様に、歯を見せて笑う豊原さんを横目に、私の左隣を歩く銀山さんは欠伸をした。
修学旅行のメインイベントのフィールドワークや、観光地巡りにもまだ行っていない。なのに、班の子達の暖かさに、それだけで来てよかったと思えた。
「ちあり、後ろ気をつけて。段差あるよ」
後ろ向きで歩く川波さんに、銀山さんが声をかけた。川波さんの背後には、数段の階段と「大浴場」の看板。「ゆ」と書かれた定番の赤い暖簾も見えた。当の川波さんは、足がなんとか階段に差し掛かる前にきちんと体を前に向き直して、一歩ずつ階段を降りる事ができた。
「わっ危なかったー。観冬、ありがと! 言ってくれなかったら、あたし頭から転げ落ちるところだった」
ヒヤヒヤしたー、と川波さんは胸に手を当てて笑う。川波さんは癖っ毛の前髪を軽く整えると、大浴場に班員一番乗りで暖簾を腕で押した。それに続いてみんなも暖簾をくぐる。
中の脱衣所では、同じクラスの女の子達が早速お風呂に入ろうとしている。見かけたことがない女の子達もいたので、その子達は別のクラスの子なのだと思う。
私達も、空いているロッカーに着替えを入れて浴場に入る準備をした。なんとなく目のやり場に困ってしまって、その場に立ったままでいると、川波さんと豊原さんは、もう大浴場への扉を大はしゃぎで開けていた。
「温泉楽しみだね」
銀山さんの声が聞こえた。見ると銀山さんが私の左腕をつかんで、「行こう」と上目を向けてきた。私の身長も決して高いわけではないけれど、私よりも小柄な銀山さん。軽く引っ張られて、私は扉の内側に入った。
「露天風呂もあるらしいよ、銀山さんは行く?」
「寒そう。十二月を甘く見る訳にはいかない……。体洗いながら考える」
銀山さんは髪を洗うために、結ばれていた髪をほどきながらそう答えた。視界は立ち込める湯煙で遠くも、近くさえもぼんやりとしている。足元の石かタイルかは、ほんのりつめたくてすべりそうだった。
前面ガラス張りの開放的な室内風呂に心が弾み、全身がウズウズする。ちょうど隣同士、二席の洗い場が空いたので私と銀山さんは横並びでそこに座った。
「こういうところにあるリンスインシャンプーって、髪がきしきしするよねー」
「分かる。普通にシャンプーとリンスに分けて欲しい」
銀山さんはこくこく頷きつつ、肩にかかるほどの長さの髪をわしゃわしゃと洗う。そして、泡を頭に乗せたところを私に見せてくれた。銀山さん作のソフトクリームの完成。私も泡立てようとするが、まったく気配がない。
「それすごく上手! 私は全然泡立たないや」
「弓月にもやったげよっか?」
銀山さんは薄笑いを浮かべている。銀山さんの笑顔、初めて見た。世界中の人々に厳重に保護されるべき笑顔だ、これは。早速私の脳内レッドリストに載せました。
それにしても、銀山さんがソフトクリームの帽子をかぶっているものだから、私も思わず笑ってしまった。その後、残念がることでもないのに、そのソフトクリームが水に溶ける時には「あー」とお別れを告げた。
洗い終わった髪を高い位置で結び、お団子を作る銀山さん。私も自らの短い髪でできる限りのお団子を作ると、洗い場を他の子達に明け渡した。
「まずは室内風呂に入ろっか」
温泉は、冬の日にちょうどいい温かさだった。壁面には温泉の効能が書かれていて、ぼんやりそれを読みながら穏やかな時が流れ過ぎゆく。温泉に入るのもいつぶりか分からない。
「筋肉痛、冷え性、疲労回復、切り傷……」
「わたしもおんなじとこ読んでた。疲労回復っていいねー」
銀山さんの表情が、自ずからホワホワしている。長時間のバス移動の疲れは大きく、温泉の中で溶けそうになっていた。私も隣で一息つく。すると、川波さんが露天風呂の方に小走りしているのが見えた。
滑って転けないか心配するべきだけれど、そんな考えよりも脳に飛び込んできた情報に頭はいっぱいになった。ちらりと銀山さんを見ると、銀山さんもそれを見ていたようで、とろけていた目がぱっちり開いていた。
私が川波さんから目をそらした理由。川波さんの胸元で揺れる、何者でもないもの。制服を着ていた時から思っていた事だけれど、川波さんって胸大き……。これ以上はちょっとやめようかな。
「ちあり、揺れとるやん。でっか。わたしは……」
銀山さんがポツリと呟く。視線は、彼女の胸元に向いている。銀山さんも同じことを考えているのか、とほっとしたが、銀山さんの哀愁漂う空気に笑うことはできなかった。
水面からは、湯気が上に上にと舞っていく。手前から奥の方まで、靄の様な水蒸気の流れが見えた。
「銀山さん、露天風呂行かない?」
私が声をかけたが、銀山さんは首を横に振った。
「ここに根っこ生えた……。動けない」
「そっか、了解。私、行ってくるね」
「いってらー」
私は温い水から上がり、冷たいタイルの上に足をつける。浮力が働かなくなった体はなんだか重たい。川波さんの走っていった方に歩いていくと、一つの扉があった。扉に一歩ずつ近づいて行くごとに、足の裏は冷え切ってしまう。
私は、この短い間で冷めた体を抱えて扉を開けた。露天風呂は二つあって、川波さんは、手前の露天風呂に一人で浸かっていた。奥の方にも何人かが浸かっている。
「どうしてみんな、あたしと一緒に入ってくれないの? 寂しいじゃん!」
川波さんの嘆く声が聞こえた。すると、奥にある露天風呂からも声が聞こえる。
「こっちの方が熱いもん! そっちぬるかったし」
私は、どちらに入ろうか迷うことはなかった。凍えた石の上をできるだけ歩数を少なくして歩く。つま先だけを地面にくっつける。ぬるいと噂の露天風呂の方に歩いていると、川波さんが私に気づき笑顔になる。弾ける様な華やかな笑顔。
「弓月ちゃん、おいで!」
私の名が呼ばれた。
満開の笑顔が、私の瞳孔やら水晶体やらに刺さる。最初から川波さんがいる方に行こうと思っていたけれど、こんな風に言われてしまうと小恥ずかしい。
「うん」
声も笑顔も堅い。今すぐ異世界から召喚されて、煎餅に転生してもエリートになれる! ぎこちないが、これが私の精一杯。自分でも聞き取り難くて小さくすぼんだ声にも、川波さんは頷いてくれた。
十二月の北陸というのは私には寒くって、急いで温泉につま先から入った。ひりひり痛む耳、かさかさしている唇、胸の中に響く心拍音を感じながら。
体は温かいのに、顔は外気に触れて冷たい。心地よい感覚だった。露天風呂には、夜空に浮かぶ満月が映されている。私と川波さんの僅かな動きで揺らめく水中の望月。
「月が綺麗だね!」
もし丁寧語が使われていて、感嘆符がない口調であったら私は、勘違いしていたかもしれない。けれど、川波さんが「!」を多用する系女子でよかった。
いや、この時に私は勘違いしてしまったんだ。正座をした時みたいに膝と足に力が入らない。電気風呂に入っているわけでもないのに、痺れて動けない。
「うん、綺麗。月明かりはやっぱり明るいね」
露天風呂の縁には灯火があったが、誰も目をくれず月を見ていた。「月の前の灯火」とはこの事。かわいそうに、と灯火に哀れみの目を向けてやると突然、灯火の光の威力が上がり、眩しくて私は思わず目を瞑った。こいつ、可愛くないな。
私は、瞳の中に月を閉じ込めた川波さんを見たくなって、見つめる方向を隣に向けた。ふくよかな胸に視線が行きそうになったけれど、慌てて顔をあげる。
川波さんは変わらず月を見ている。跳ねていた毛先が水に濡れて、重力に抵抗せず垂れている。ポタリと水の雫が水面に落ちる度、ゆったりと波紋が広がってゆく。
「弓月ちゃんは露天風呂好き? あたしは大好きなんだ。夜もいいけど朝に入るのも好き」
川波さんの横顔にのぼせてしまった。外気に触れて、冷たかったはずの顔が熱くなっていくのが分かる。月下美人という言葉が浮かんだが、月影がなくても川波さんは美しく、そして可愛い。川波さんの声が、白い息とともに大気中に浮かぶのをうっとりと眺めた。
「私も露天風呂好きだよ、めったに露天風呂って入らないし。川波さんは……」
「ちありでいいよ。あたしも弓月ちゃんって呼んじゃってるしさ」
太陽の光を反射して輝く月の光。其れを反射して揺らめく、露天風呂という名のついた月の鏡。
私の鼓動の高まりを表すかのごとく、私達二人だけの月が水面で烈しくはためいた。美しい満月でさえ、貴女の前では引き立て役としか思えない。
「ちありちゃん……」
私の声はふっと揮発する。顔をこちらに向けた川波ちありという少女の目が私を捉えた。放さなかった。
「どうしたの?」
ちありちゃんは、くしゃっと笑う。私からも放したくない、月色が加わった瞳。笑顔がよく似合う女の子だなと思った。ほんのり開いた唇の淡紅色になんだか胸がソワソワした。
「呼んでみただけ」
「なんだそれ!?」
ちありちゃんは、大きく口を開けて笑った。昨今危ぶまれている、若者の語彙力の低下が私にも伝染してしまったのかもしれない。「可愛い」という言葉以外に、この笑顔を表す言葉が見当たらなかった。
ずっとこのままだったらいいのにな。こんな幸せなことだけが続けばいいのにな。まるで、英語の授業で出てくる仮定法の例文の様な願望を心の中で口にする。
「あのさ」
ちありちゃんの声の行方を夜空に追いかけた。
「あたしの家の向かいに、和歌が刻まれた石碑があるんだけどね。弓月ちゃんの名前が入ってるの。だから、弓月ちゃんが転校してきた時びっくりしたの! 弓月ちゃんって子と会えた、って」
「和歌! そうなの? 知らなかった。なんて和歌なの?」
湯が音を立てて跳ねた。ちありちゃんは、落ちてきた髪を掬い上げて耳に掛ける。顔の凹凸に沿って作られる光と影が、ちありちゃんの髪の輪郭を鮮明に見せた。
「痛足川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立てるらし」
ちありちゃんは。川波さんは、その和歌を高い空に浮かべた。巻向駅の側にある自動販売機のラインナップや、踏切の音まで思い出せる。ちありちゃんの名字が川波である事も、私の名前が弓月である事もただの偶然かもしれない。寧ろ、そうでしかない。
けれど、私はこの小さな偶然を運命と捉えてしまった。浅い考えだと笑える位に、こじつけているのかもしれないけれど。
「素敵。その歌、私とっても好きだな」
「いいよね! だからかな? 弓月ちゃんが転校してきた日、教室に入ってきた時の事をよく覚えているの。ちょっと緊張してる感じで、私達の制服とは色も形も違う制服を着てて……」
ちありちゃんの弾む声を切る様に、室内から先生の声がここまで届いてきた。
「そろそろ交代の時間でーす。三、四組の生徒達は上がってー。五組の子達が待ってるから」
「嘘、もうそんな時間? 名残惜しいねー」
ちありちゃんは勢いよく温泉から出ると、室内につながる扉を開ける。私も脇に置いていたタオルを拾い上げて後に続いた。
嗚呼、何故こんなに愛おしい時間だったのだろう。
「あったまったね! 体が冷えないうちに部屋に戻ろっか」
ぬるいと言われていたあの露天風呂が本当にぬるかったか、私はもう覚えていなかった。脱衣所に戻ると、私達以外の人は大抵もう戻っていた。着替えを置いていたところに行くと、豊原さんと銀山さんが着替えている。
「うち、洞窟風呂に行ったんだけど、ちありと弓月は行った? めっちゃ暗くて楽しかったよ」
豊原さんは、学校指定のジャージに着替え終えたようで、ロッカーから荷物を取り出しながら言った。
「洞窟風呂があったの? うっそ、どこにあったのか全く分からなかったー」
ちありちゃんも私も、室内風呂と露天風呂以外にもお風呂があるとは思っておらず、目をパチクリさせる。すると銀山さんが、ちありちゃんに応える様に口を開いた。
「わたしも秋子に連れられて行った。露天風呂の扉の真横にあったよ」
秋子ちゃん……あ、豊原さんのことか。……ああ、私は一体いつから勘違いしていたのだろう。三人で前から仲良くしてたのだから、私ってやっぱり邪魔なのかな。三人は私に優しくしてくれているけれど、それって私から見るとそう映るだけで、気を遣わせてしまっているのかな。
「気づかなかった! ほら、あたし露天風呂にダッシュで一直線だったし」
ちありちゃんは、今時の小学生でも見せない様な無邪気な笑顔をして見せた。みんな楽しそうに笑っている。私は一人、そのことを意識してしまうと落ち着かず、肩身が狭くなってしまった。
でもそれを顔に出し、私がこの空気を壊すわけにはいかない。それこそしてはいけない。
「私もちょっと行ってみたかったな。明日の朝、何時からこの大浴場空いてるかな?」
軽い世間話の様に、口角と声のトーンを上げて口にする。ここで、この話は終わらせるつもりだった。
「めっちゃいいやん! うちは露天風呂行けなかったし、朝風呂ってやつ? 行こうかな」
「洞窟風呂……なかなか良かったよ」
「見て、弓月ちゃん。あそこに五時からって書いてあるよ」
一斉に三人が私の方を見る。優しい表情をしていた。気を遣ってるとかではなくて、私と仲良くしたいと思ってくれているのだな、というのが嬉しかった。
私にも友達ができた様な気がして、私も修学旅行を楽しんでもいいんだなと思えて。
「ありがとう」
目の奥が熱かった。泣く様なところでもないのに、泣けちゃうくらい嬉しかった。
「弓月、何で泣いてるのん? ただ明日もお風呂に入るぞって話をしてただけやん?」
豊原さんが私の背中を優しくさする。銀山さんは、ハンカチを持って背伸びをしていたが、そのハンカチが私の頰を伝う涙に届くことはなかった。
「ありがとう」
少し赤くなった目と頰で笑った。私がこらえきれずにクスクス笑っていると、銀山さんが、私よりも赤くなった顔でそっと囁いた。
「そんなに笑わないで。恥ずかしい」
私に優しくしてくれている三人に、私からも歩み寄らなきゃ。コミュニケーション能力とか社交性なんて関係ない。仲良くしたいっていう私の思いが少しでも伝わって欲しい。
勇気を出して、私も下の名前で呼ぼう。みんなは呼んでくれているのに、私だけ「さん付け」で呼ぶのも、距離を感じてしまう。豊原さんのことを秋子ちゃん、銀山さんのこと、観冬ちゃんと。優しさを、こんなに沢山受け取った私にもできることだ。
あと、私には何が足りない? ううん、足りないものは無くなった。
四人は並んで暖簾をくぐった。外は真っ暗で、続く回廊の一定間隔にある明かりだけが頼り。ちありちゃんが私達のコテージの鍵を持って、またもや一番前を突っ走る。秋子ちゃんも小走りで追いかけ、私と観冬ちゃんは後から歩いていく。
こんなに寒い中、元気に走れるなと感心しつつ、夜に吹く風を感じながら前に足を進める。
「観冬ちゃんは走らないの?」
「わたしは、弓月の歩くスピードが丁度いいから」
前を向いたまま、観冬ちゃんは返答する。そっか、と私が漏らすとそれっきり静かになってしまった。二人で歩いていくと、私達の部屋の前で先に到着した二人が手を振っている。四人が揃うと、ちありちゃんが持っていた鍵でコテージのドアを開けた。
四人全員が部屋に入ったところで、観冬ちゃんの動きがピタリと止まった。ちありちゃんと秋子ちゃんもそれに気づき、だるまさんがころんだの途中の様な奇妙な光景になっていた。
「えっ、弓月。わたしのこと観冬って呼んだ?」
「うん。ダメだったかな?」
私を含め、観冬ちゃん以外の三人が首をかしげる。観冬ちゃんが言葉を続けるのを待った。
「いや、ダメじゃない。ちょっと驚いただけ」
秋子ちゃんが観冬ちゃんに音も立てず近づき、そそのかす様に笑った。観冬ちゃんは、秋子ちゃんを払う様に手をパタパタさせる。
「秋子、そんなにニヤニヤしないで」
「観冬ちゃん嬉しいんだねえ、よかったねえ」
秋子ちゃんは悪戯っ子の表情で、大型犬を褒めるみたいに観冬ちゃんの頭を撫でる。目の前の戯れがなんだか可笑しくて、私は口元をゆるめた。修学旅行に来てから、私はずっと笑いっぱなしだった。この班に入れてもらえてよかった。今日だけで何度もそう思った。
コテージに並んで置いてある四つのベッド。誰がどこで寝るかは、もうじゃんけんで決めている。私は、窓際の一番奥のベッド。銘銘ベッドに座って、一息つく。
「これからどうする? まだ九時だから消灯時刻まで一時間あるよ」
「修学旅行といえば恋バナっしょ! うちらに消灯時刻なんて関係ない。徹夜しよう!」
秋子ちゃんは、誰よりもテンションが高かった。私は、もう寝る時間だと思っていたけれどまだ夜は長いそうで、みんなのテンションも秋子ちゃんに向かって上がっていく。
恋バナ。人並みに興味はある。二階の観客席から覗く恋バナはきっと楽しくて、こんなに緊張感はない。何に対してこんなにもソワソワしているのかは明白だった。私のせかせかした動作をよそに、三人は話し合っている。
「一日目から徹夜はやめようよ。明日は観光地巡るから、たくさん歩くと思うよ?」
「ソフトクリーム食べたい」
観冬ちゃんってソフトクリームが好きなのかな。真冬に食べるソフトクリームも美味しそうだな、と思っていると、いつの間にかじゃんけんをする雰囲気になっていた。
「じゃあ勝った順で話していこっか。恋バナ」
ジェットコースターに乗ってしまうと逃れられない様に、この空気からも、もちろん逃げることはできなかった。幸か不幸か、運ゲーであるはずのじゃんけんが弱い私の順番は一番最後になった。
一番手は秋子ちゃん。
「うちから? いやー照れるな」
秋子ちゃんは満更でもなさそうに、顔の横に垂れた長い髪を手でくるくると遊んでいる。私は、自分のことを一旦打ち捨てて、恋の話を聞くことに心を弾ませていた。私の中での修学旅行といえば、甘酸っぱいこんな空間だった。
「はよしなさい」
「そうだぞ! あたし達もこのあと控えてるんだぞ!」
野次が飛び交う。何か想像していた空気感とは少し違う気がしたけれど、それでも心が綻んだ。
「うちは愛妻家っていうか? 愛従姉妹家っていうか」
秋子ちゃんの、いつも笑顔でつかみどころがなさそうな顔が、ミクロ単位で照れている様に見えた。いや、気のせいかもしれない。
野次を飛ばす係の二人は、「変な造語作るなー」と淡々とした表情で言っている。
「隣のクラスに、従姉妹の宮北のどかっていう子がいるんだけど、まあその……うちはのどかがいるだけで幸せっていうか。まあ、のどかラブって感じ?」
ちありちゃんは乏しい表情から一転、目を煌めかせながら、もげそうなくらいに首を縦に振っている。そして、「はい! はい!」と言いながら挙手した。
「どんな子? ねえ、どんな子?」
「どんな……真っ黒の長い髪がよく似合ってて、身長はうちの方がちょっと高くてさ。恥ずかしがり屋だけど、困っている人がいたら自分を顧みないで助ける様な優しさがあって。端的にいうと、天使かなってくらい可愛い」
秋子ちゃんの顔が紅に色づく。秋に紅が移ろうなんて素敵だな、とかいい加減なことを考える。
「いつ好きだなって思ったの?」
観冬ちゃんは、挙手をせずに秋子ちゃんに尋ねた。
「小学校……二年生の頃かな。その時までのどかのこと、従姉妹としてはもちろん大好きだったんだけど、急にのどか可愛いなあ、って思うようになったんだよね」
色めく秋子ちゃんが可愛かった。とても素敵な恋をしているのだな、と思える幸せそうな笑顔だった。私までときめいてしまいそう。いたく締め付けられる胸に手を当てると、そこには忙しなく動く心臓があった。
「でもね、うちがのどかを一方的に好きなだけなんだ。あはっ、ちょっぴりさみしいよね」
秋子ちゃんはそう付け足した。秋子ちゃんの笑顔は美しいままだった。
「次、次。観冬の番だよ」
「わたしの話はあまり面白くないけど」
髪をおろした観冬ちゃんは、年ゆかない子の様に見えた。華奢な体と童顔が対称的でお人形のようだった。美人な同級生に囲まれて、右を見ても左を見ても心臓に悪い密室コテージ。
これで吹雪でも降ってきたら、陸の孤島となったこの山荘で、殺人事件が起こるかもしれない。
「観冬ちゃんの好きな人ってどんな人? 気になるなあ」
「弓月も変なこと言わないで。……わたしは初恋の人がいるんだけどね」
観冬ちゃんが観念して白状し始めた。ここはまるで、火曜サスペンスの聖地、東尋坊の崖の上のようだった。ジェネレーションギャップに触れそう。
「小学生の時……二年前まで毎年のように同じクラスだった子が居たんだけど、その子がわたしは好きなの。中学校に上がるタイミングで引っ越しちゃったから、おんなじ中学校にはいないんだけどね。まだ忘れられないの」
「ヒューヒュー」
ちありちゃんと秋子ちゃんの口から風が吹く。観冬ちゃんはやめなさい、と笑っている。この風が強風と進化し、その風に雪が乗って私達の元にやってきたら、その時は「密室コテージ殺人事件」が起こりうる。
そうすると、清らかで絹の様なこの甘い空気とも、さよならを言わなくてはいけないだろう。
「身長はわたしと同じくらいでね、髪は真っ黒で短いかな。目立ちたがり屋だけど、それでも許されるくらい完璧な人。なんでもできるから、嫉妬の感情なんて湧かないかっこいい人」
観冬ちゃんは少し暑くなったのか、両手でうちわの様にあおいだ。その一挙手一投足が微笑ましい。お風呂上がりの観冬ちゃんはまるで、寝ぼけた猫のようだった。
「こんな感じかな。おんなじ中学じゃないし、つまらないでしょ」
「そんなことないよ、観冬。今の観冬の表情を写真に撮りたいくらい可愛いよ! めっちゃ乙女って顔してる!」
観冬ちゃんは頰から耳まで真っ赤になって、「もう、顔洗ってくる!」とベッドから降り、洗面所に向かった。
「次はちありですぜ。ちあり、吐いちゃいなよ。楽になれるよ」
秋子ちゃんが尋問する様に、ちありちゃんの肩をポンと叩く。私の頭の中では警察に扮した秋子ちゃんが、神妙な面持ちのちありちゃんを取調室でカツ丼を食べさせている図が描かれる。それにも私は唇の両端を引き上げた。
昨日、修学旅行に行きたくない、と嘆いていた私に一日後から伝えてあげたかった。そんなに悩まなくても大丈夫だよ、と。
シンと張り詰めた肌寒いコテージの洗面所からも、騒ぎ立てる人が一人。
「言っちゃえ、ちあり」
声だけが耳に届いたが、観冬ちゃんの悪巧みをする様な笑顔は、容易に想像することができた。問い詰められるちありちゃんは、依然として口をへの字に曲げて口を閉じている。
ちありちゃんの好きな人ってどんな人なんだろう。きっと、ちありちゃんと同じ温度で盛り上がる様な人がお似合い。でもいざとなった時は、頼りになるかっこいい人。
自分で想像して、自分で苦しくなってしまった。この掘られた墓穴は私の為のもの。この場から今すぐ逃げて、耳を塞いでうずくまっていたい。
「あたしの理想のタイプは高身長で、メガネが似合ってて余裕がある、大人な人が好きかな」
「性格とか内面はどんなタイプが好きなんです? ちありさん」
「おかしな敬語を使うのやめてよ! そうだな、よく笑う人が好き。だって、あたしが笑ってるのに、相手は無表情なのって嫌じゃん?」
耳だけが研ぎ澄まされて、情報を脳に送った。口の中が乾いて、いつの間にか口が半開きだったことに気がついた。心を落ち着かせるために、静かに息をゆっくり吐き出す。
まだ大丈夫。特定の誰かの話なんてしてない。でも、もし秋子ちゃんに揺さぶられたら、ちありちゃんの口から聞きたくない言葉が聞こえてしまうかも。
ピントも合わせずに見ていた観冬ちゃんがタオルで顔を拭いて、さっぱりした様子で戻ってきた。自然に乾いた前髪も再び濡れて、おでこにピッタリと張り付いている。
「おかえり」
「今、どういう状況?」
「ちありの可愛い可愛い恋バナの途中って感じ」
観冬ちゃんがベッドに腰掛けると、ちありちゃんは再開した。
「でも、こんな人に会ったことないけどね。それと、理想と実際好きになる人って違うし」
好きな人が現在、ちありちゃんにいるのではないか。私はそう感じた。ちありちゃんの表情? 声? 分からない。けれど、何かに違和感を覚えた。
私はどの様な心持ちで聞いていればよかったのか。いつの間にか、私の顔は下を向いていた。体の芯がすっと冷える音がした。
私の目よ。いいかい? もし脳から命令があっても、「涙は生産が追いついていないため、在庫がありません」と答えなさい。これがお母さんとの約束だよ。
「ちありの理想って、身長引き伸ばして大人っぽくなって、眼鏡かけた秋子さんじゃね? もしや、うちのこと好きなん? ごめんな、うちにはのどかがいるんよ」
秋子ちゃんの言葉に、不覚にも笑ってしまった。
「それって、もはや別人じゃん! 弓月ちゃんも笑わないで、秋子が調子に乗っちゃうから」
よかった。私の目からは何も溢れてない。解れた笑顔をそのまま保てる様に、絶やさない様に意を決して顔を上げた。次は私の番だ。
「ちあり、終わりでいいの?」
ちありちゃんは、唇を閉じたまま微笑んで首を横に振る。問い掛けた観冬ちゃんは目を見開き、ハッと息をのんだ。水面下で会話をするかの様に、目配せする仕草を見せる。私には何が起こっているのか、到底分からない。
「もう少し話をさせて。理想と実際って違うよねって話に戻るけどさ。多分、秋子と観冬が私に言って欲しいことってこれでしょ?」
私はよく分からず、三人の顔を代わる代わる見つめることしかできなかった。
「あたしの好きな人はね、目がぱっちりしてて可愛くて。眼鏡は掛けていないし、私より身長が少し低いけど、あたしが笑ってる時に一緒に笑ってくれて。こんなこと言ってるけど、本当は一目惚れだし」
秋子ちゃんと観冬ちゃんは二人で目を合わせて「やれやれ」って笑ってる。
「あたしが、同じ班に入ろうよ、って誘ったのはこれが理由だし」
ちありちゃんの話を聞いていた。ぼんやりと。一つ一つの単語の意味は分かるのに、文章になった途端分からなくなる。ちありちゃんの瞳が不意にこちらを向いた。目が合うと、私のバカな心臓は急に働き者になる。ちありちゃんのことでいっぱいになった頭は爆発しそうだった。
「だからね、あたしは弓月ちゃんが好きだよ」
ちありちゃんは、私を放してはくれない。私は、顔が熱くなっていくのが分かった。何か声を発しなきゃ。頭の中がホワイトアウトしたみたい。何もいうべき言葉が埋もれてしまって、搔き分けることもできない。
その時、コテージのドアがガタガタと音を立てて揺れた。人の手による音の大きさではなかった。だが、その音もすぐ止まる。窓を見ると、遠くの夜が白に染まっていく。風に乗せられて、雪が窓に衝突していた。張り付いた雪は透明な窓に倣い、溶けてゆく。
「びっくりした! 雪が降ってきたね、積もるかな?」
ちありちゃんは曖昧に笑う。積もるかどうかなんて、今の私にとっては重要ではなかった。
「積もったら、明日の兼六園は絶景だね」
観冬ちゃんは、ベッドの上で体育座りしたまま、声をひそめて言った。秋子ちゃんは、大きな音に驚いたのか自分のベッドを飛び出し、観冬ちゃんにしがみついている。
「重い」
秋子ちゃんは観冬ちゃんの肩から手をパッと離すと、怒られた子犬の様に黙って自分のベッドに座り直した。しばしの沈黙が秒針の働きを強調させる。私が話し出さない限り、ほかにこの場で声を出す人はいない。
今、私の番が巡ってきた。空欄を埋める様に、まとまりきっていない言葉をその場で紡いで吐き出す。
「……私は。私は明るく話しかけてくれて、私もつられて笑っちゃうくらい笑顔が可愛くて……。とにかく可愛くて。それで、私を同じ班に入れてくれて」
私はここで一つ大きく息を吸った。ちありちゃんは私を待ってくれていた。
「私のことを好いてくれてる、ちありちゃんが好きだよ」
言うことができた。まだちありちゃんの良さは全然言えてないけど、一番大切なことは言えた。唇が震えている。私は、ちありちゃんの顔を見ることができなかった。
「あたしと付き合ってくれる?」
ちありちゃんの甘く鈴の様な声が私の耳に行き着いた。私は、今までにないくらい素早く頷く。
「うん、もちろん!」
ちありちゃんの瞳が、私を閉じ込めてこちらを見ていた。柔らかくて、少し強張った笑顔だった。
「よかった」
私の胸を誰かが、私の心臓を握りつぶしている様に痛みが走った。きっと、死に際に見る走馬灯には、こんな情景が選ばれるのだろう。今の私では、そんな月並みなことしか思いつかなかった。
もう少し大きくなってから、このちありちゃんの可愛さを解き明かすことができたら。その時、私達はどんな関係になっているのだろう。
「もう寝よっか。もうすぐ消灯時刻になるよ」
ちありちゃんの声。振り向いて壁にかけてある時計を見る。あと十分と少しで、消灯時刻の二十二時になるところだった。
「ちありと弓月は紅茶飲む? 今からお湯沸かすけど」
観冬ちゃんは、ベッドからひょいと飛び降りると、電気ケトルやコーヒー豆、紅茶のティーバッグの置いてあるテーブルに向かった。
「一杯もらおうかな。秋子には聞いた?」
「秋子はぐっすり寝てる」
私とちありちゃんが、ほぼ同時に秋子ちゃんの方を見ると、掛け布団も掛けずに大の字で寝ていた。幸せそうな笑みを浮かべながら、すやすや眠っている秋子ちゃんに、ちありちゃんと視線を交わして笑う。私もこの上なく幸せだった。
「弓月はどうする?」
「私も飲みたい!」
観冬ちゃんの了解、という声。私はベッドに腰掛けたまま、ちありちゃんが髪を下ろした姿を改めて見つめた。
ちありちゃんは、右手を添えて欠伸をした。波打つ前髪を軽く触って整えた。肩にも届かない短い髪は、耳にかかって進行方向が変わっている。後れ毛の行方まで見届けたい。けれど、ちありちゃんがこちらに気がつく前に、私は何事もなかった様に目線を移動させた。
観冬ちゃんが、私達を呼ぶ声が聞こえる。はっきりしない意識が、その声でここに戻ってきた。観冬ちゃんの座る椅子の隣に座ると、紅茶の入ったコップを渡してくれた。
「秋子ちゃんっていつの間に寝ちゃってたの?」
「秋子は、弓月が告白に返答した瞬間に倒れる様に寝てた。だから二人が付き合うっていう話は耳に届いてないと思う」
観冬ちゃんは、口をすぼめてコップの中の紅茶に息を吹きかける。飲むのかと思いきや、再びフーッと風を送る。
「秋子ってば、さっきまで徹夜するぞ! って言ってたのにあっさり寝たねー」
ちありちゃんがコップを受け取ると、テーブルを囲み三つ巴になった。観冬ちゃんは、再び紅茶に挑戦。観冬ちゃんはリュックからおもむろにハンディファンを取り出して、無機質な音と共に、コップに風を当て始めてしまった。そして、おっかなびっくり紅茶を飲む。
私も紅茶を飲むと、アールグレイが鼻に抜けた。窓の外の世界に見える雪は穏やかになっている。
「わっ! もう寝なきゃ、十時過ぎてるよ」
「先生が来るのも時間の問題だね、急ごう!」
「電気消すね」
コップの三分の一残っていた紅茶を一気に飲み干して、テーブルに勢いよく置くと私達は自分のベッドに滑り込む。ひんやりと私の体に覆い被さる布団の中から腕を伸ばして、ベッドの手元にある部屋の電気を消し、そのまま私は眠りに落ちた。
紅茶が残す口内の温かさが消えたことにも気づかずに。
部屋の明かりがついたことが、まぶたの裏からも分かり、目を覚ます。眩しい光に目を開けられずにいると、誰かが私のベッドの上に体重を乗せた。
「弓月ちゃん起きて」
朧げな意識の中でも、はっきりと聞こえるちありちゃんの声。眠気もあったはずなのに、あっという間に飛んで行った。飛び起きる様に上半身を起こすと、目の前にちありちゃんの顔があった。驚く前に私はベッドに倒れ込んでしまった。
「弓月ちゃん大丈夫?」
ちありちゃんが私の肩と腰に触れ、体を起こしてくれた。良い香りが私に降り注ぐ。私と同じリンスインシャンプーを使ったはずなのに、私のとは違う匂い。ちありちゃんに包まれて、首っ丈だった。
「大丈夫! ありがと」
ベッドから腰を離して立ち上がると、奥に観冬ちゃんと秋子ちゃんが座っているのが見えた。ちありちゃんに手を引かれて、後ろを歩く。ちありちゃんに平然と手を繋がれている。
あんまり深くは考えない様にしないと、変な手汗をかきそう。
「弓月おっはー!」
秋子ちゃんが、観冬ちゃんの隣で私に手を振った。睡眠時間が私達より数分長い秋子ちゃんは、早朝から元気一杯だった。隣の観冬ちゃんは、頰杖をついて修学旅行のしおりを読んでいた。今日の日程の行動予定表を念入りに。
「じゃあ朝風呂行こっか!」
ちありちゃんの合図で二人は立ち上がる。私は驚いた。ほんの少しだけ。私が言った何気無い事を覚えていてくれて、早起きして朝風呂に行こうと行ってくれたのが嬉しかった。午前五時にお風呂が開くといっても、修学旅行で早起きなんてしたくないだろう。私だったら、朝くらいゆっくりさせて欲しいと思ってしまう。なのに、この子達は。
友達として接してくれる事が殊更に嬉しくて。でも感情を顔には出さない様に、ニヤニヤする口元を片手で抑える。
テーブルの上に置かれていた、コテージの鍵をちありちゃんが手に持つと、四人は部屋から外の世界に飛び出した。
「真っ暗」
観冬ちゃんの言葉が、夜明け二時間前の空に突き刺さった。星が見えさえする空は、真夜中と言われても納得できるほど暗かった。他の色の介入を許さない黒の底力を見た気がした。
「今何時? お風呂って午前五時からだったよね」
「うん! だから今は五時だよ!」
四人は昨日も通った回廊を歩く。視界不明瞭の中でも走るお二人さんはさすがにいなかった。
「雪も積もってる! よっしゃ、露天風呂に雪とか最高やん」
昨晩の積雪がまだ残っていて、僅かな光を反射させている。そのためか、辺りが微かに明るく光っていた。雪明かりに間接照明の役を担わせるには重い。けれどすっぴんの木々も、積もった雪によって華やかさが加算されて、ほんのり銀色を帯びていた。
「雪山観冬になってる……」
観冬ちゃんは、猫の欠伸の様に大きく口をくわっと開けた。足を前に出す度に、脱力された頭が左右に揺れている。
数段の階段を降りて、暖簾をくぐっても私達の他には誰もいない。私達四人の貸し切り状態だった。私のかじかむ手を、包み込む様に繋いだちありちゃんに連れられて大浴場の内に入る。
「早く早く!」
「一番風呂やん! やったぜ」
寝起きと言うには十二分なテンションの急上昇っぷりに私は失笑する。冷えた床のタイルがじわじわと足裏にきても屈することなく、露天風呂まで一直線にダッシュした。
鳥肌が立つ腕も、頬を掠める氷の夜風も私達には造作もなかった。歯はガタガタと音を立てて、体もひとりでに震えていたけれど気にしない。
二つある露天風呂のうち奥に位置する、ぬるくない方の露天風呂に足を進める。すると、コポコポと水音が聞こえた。温泉の水はこちら側から出ているようだった。一人ずつ硫黄の香りが漂う温泉に入っていく。
温泉の縁にはふわふわとした雪が降り積もっていて、温泉の波が押し寄せる度、みぞれ色に染まる。
「わたし、霙山観冬と名乗っていこうかな」
観冬ちゃんは「えへへー」と口を横に開いて笑う。もしかすると、朝にしか見ることができないレアな観冬ちゃんの姿かな。寝癖で前髪が直立し、後ろ髪はライオンのたてがみの様に四方に広がっている。
水面は、場所によって杜若の花弁の様な美しい青紫色から、「夜と朝の狭間の空」とお揃いの黒色まで、グラデーションがゆらゆらと輝いている。私達は大きなため息をついて、肩まで水の中に埋める。
「沁み渡るー!」
お酒を飲んだサラリーマンみたいなセリフを吐く私達。大将、とりあえず生ビール一つ! と言わんばかりの深いため息を宙に放った。四人は同じ方向の空を眺める。移りゆく雲に味気なさを感じていると、厚い雲の裏からまん丸のお月様が姿をあらわした。一度瞬きするごとに、辺りは明るくなっていく。
全体の姿が明らかになった時、秋子ちゃんが水面を揺らして、金色の月が映るお湯を両手で掬い上げた。羊羹に埋め込まれた栗の様に朧な月。
「綺麗……」
そう言ったのも束の間。とれたての月はあっさり放流されて、打ち揚げられた魚の様に水面で暴れる。それさえアクセントとなる沈黙に身をまかせて私は、私達を待ち受けている様々な出来事を想像する。
冬の風物詩である雪が映える兼六園と、観冬ちゃんが楽しみにしている金箔ソフトクリーム。 茶屋街に行ったらお洒落なカフェもあるよね。お姉ちゃん達から頼まれたお土産もここで買おうかな。
「みんなは家族にどんなお土産買うの?」
私は、沈黙を破った。
「あたしはね、昨日お母さんにって金箔のあぶらとり紙を買ったよ」
ちありちゃんは、自慢げに胸を張って答えた。Vサインまでしている。
「まじ? いつの間に買ったの? どこかに売ってたっけ」
「来る途中に寄ったパーキングエリアでゲットした!」
「高そう」
観冬ちゃんの声が、吹雪の様に感じた。あのほのぼのとした空気は何処へやら、私達のボーナスタイムは終わりを迎えた。
「そんな事ないよ! ニーキュッパ!」
「えっ? 約三千円……」
「お小遣いの上限って四千円だよね。まだ一日目が終わっただけなのに、あと千円と少ししか残ってないの?」
ちありちゃんは状況を理解していないようで、はて? と考えている。頰に人差し指をプスッと刺している姿も、可愛いと思ってしまった私は、いけない子かもしれない。
「だからお父さんへのお土産は、千円くらいで買えるものを探すよ!」
ちありちゃんは、分かっていなかった。金箔ソフトクリームを食べるのも、カフェで何かを注文するのも、もちろんお小遣いから。至極当たり前のことをすっ飛ばしてお土産を優先させるちありちゃんは、らしいといえばちありちゃんらしかった。
「金箔ソフトクリーム、みんなで食べれない……」
観冬ちゃんの方が、よっぽどちありちゃんより悲しんでいる。少し鼻声になっていた。
「ちあり、やばいやん! 金箔ソフトをもし買ったら、三百円で父さんにお土産買わなきゃいけないやん」
「え? USO」
ちありちゃんが急に慌てだした。周りの私達は呆れて声も出ない。ちありちゃんは、「どうしよう……三百円で買えるもの何かあるかな」と顎に手を当ててブツブツ考えている。
私も考えてみるも、なにも思いつかない。程なくして私は思考するのを諦めたが、秋子ちゃんの「あ! 思いついた!」という名案を思いついた声が、はっきりと聞こえた。
「今日の最後に、九谷焼の絵付け体験があるやん。そこで父さんの名前を、どでかく書けばいいんよ!」
「それだ!」
ちありちゃんは指パッチンをして、キラキラした瞳を取り戻した。何も「それだ!」じゃないよ。
「みんなでソフトクリーム食べられる?」
観冬ちゃんの不安そうな声にちありちゃんは、赤べこのごとく首肯した。観冬ちゃんの俯いていた顔がパッと華やぐ。私は、終始心の中で大笑いしていたが、ざわめきは嵐の様に過ぎ去った。
爽やかな心持ちだった。修学旅行を楽しめている自分自身が嬉しかった。幸せなことは、こんなにもお粥の様に体にスッと入り込むのだと。温泉の暖かさの様に、みんなで共有できるものだと知ったから。
はじめに、朝食バイキングの場で秋子ちゃんに打ち明けようか。秋子ちゃんが眠ってからの数分の出来事を。
「弓月ちゃん、どうしたの?」
ちありちゃんが不思議そうに私の顔を覗き込む。私は、ちありちゃんの目にかかりそうな髪をそっと耳にかけた。ほくろが一つが在る耳を弄うと、手のひらとは相異なる肌合いが私の指を吸い込んだ。
「やっぱり、ありがとうって思って」
なんだそれ!? ってちありちゃんの紅色に染められた顔が笑った。ちありちゃんの瞳には笑う私が映る。
朝陽が足りない午前五時半。
月の鏡と雪と灯火が私達を照らしていた。