無知蒙昧
※倫理にもとる内容がございますが、推奨・批判どちらの意図もございません。あらかじめご了承願います。
三年も、会いに来なかったジャックがいると案内されたのは、あっけないほど近い場所だった。
わたしが三年いた建物のある敷地から、一切出ないで行ける場所。
「ずっと、ここにいたの?」
「ええ、そうですよ」
わたしが少し出歩けば、会いに行ける場所だった。
出歩かないから、会うこともなかっただけで。
「役目のこともありますし、結局は、僕の目と手が行き渡ったここがいちばん、安全ですから」
建物の内側、窓際に立った賢者が言う。
「ほら、おいでなさい、そろそろ御巫が来ますよ」
言って指差すのは窓の外。覗いたそこは、小さな庭のようになっていた。木漏れ日のなかに、ベンチが置かれている。
「いつもこの時間に、散歩していますから」
「散歩?」
命の危険に晒された人間が、そんな呑気なことを?
「ああ、来ましたね」
はじめに目に入ったのは、よちよちと歩く小さな女の子。それから、乳母車を押す、お腹の大きな女性。女性が乳母車を停めてベンチに腰掛けると、子供は甘えるようにその膝に抱き付いた。女性は子供を抱き上げ、自分の隣に座らせる。子供は女性に身を寄せると、かたわらの乳母車を覗き込んだ。
微笑み合う、母と子。とても、心温まる光景だが。
「あれは、ジャック?」
大きなお腹をした女性は、体型や顔付きこそ変わっているが、間違いなくジャックだった。
「乳母車の中の子が、次代の空帝です。次代は、男に生まれましたね。良いことです」
「え?」
言われた意味がわからず、眉を寄せる。
「空帝?ジャックは、空帝の血を継いでいるの?」
「いいえ。あれは、あなたの子ですよ、空帝」
わけがわからない。
「あなたが寝ているあいだに、胎から卵を取り出して、ジャックの胎に入れて、子を成しているんです」
「な……っ」
絶句して、自分のお腹を腕で抱いた。
そんなこと、いつの間に。
「なんで、そんな、」
おぞましい。
「いつの時代も、妊娠出産は命懸けです。どれだけ世界が発展しようと、子を産むために命を落とす女性を、ゼロには出来ません」
ですがと賢者はわたしを見下ろす。
「我々は空帝を、絶やすわけには行かない。空帝が男であれば、いくらでも女をあてがえば良い話ですが、空帝が女の場合は、もし第一子を産むこともなく死ねば、空帝の血が途絶えることになる。だから」
「だから代わりに、御巫の胎を使うと?」
なんだと、思っているのだ。自分の、命を。
「狂っているわ。あり得ない」
「そうですか」
わたしの言葉なんて、ちっとも響いていない様子で、賢者は頷く。
「気遣いでも、あると思いますがね。御巫の行動は」
「え?」
「婚約者がいたのでしょう、あなたは。それも、好意を持った相手だったのではないですか?」
婚約者。
ノエルを思い出して、わたしは目を伏せる。
ノエルがクーデターの首謀者だと言うジャックの言葉を、わたしは未だに、信じきれていなかった。
「我々としては、次代の空帝は必ず必要です。あなたの血を継ぐ子供が、必要なのです。ですが子を授かると言うことは、婚約者ではない、別の男と交わると言うことです」
「っ……」
それに、耐えられるのかと、賢者の目は問うていた。
「生き延びて、血を残すこと。我々が空帝に求めるのは、ただそれだけです。僕からすればあなたの意思や尊厳など、どうでも良い。けれど御巫はそうではない。あなたの思いを無視して、ただ、子を産む胎として扱うことを、良しとはしなかった。だから黙ってあなたから卵を奪い、代わりの胎であり、親として、自分を使い潰している」
息を吐き、賢者はわたしを見た。
「次期空帝は生まれました。だからあなたが今死んでも、大陸に危機は訪れません。ただ、あなたの母国に残った空帝の血は汚されました。おそらくあちらに、もう空帝は生まれないでしょう。だから止めなければ、御巫は自分が死ぬか、あなたの卵が尽きるまで、子を産む胎で居続けるでしょう」
賢者の目が、問うている。お前は、どうなのだと。
「あなたが空帝として、我々の用意した夫と婚姻し、その子を授かって下さると言うなら、御巫も、もういいと言う指示を聞くでしょう。いかがですか?王女殿下。国のために、望まぬ相手と婚姻することを、あなたは受け入れられますか?」
「ここは、わたしの国では」
「空帝の血が途絶えれば、自国も敵国も関係ありません。大陸中の国々が、並べて平等に壊れます」
五百年生きた男相手に、わたしが弁論で勝てるはずもない。
王族が、豊かな暮らしを送れるのは、いざとなればその身でもって、国を守る盾となるからだ。
だからこそ賢者も厭味たらしく、王女殿下なんて言ったのだろう。
「御巫に会いたいなら場を用意しますよ。我が子を抱きたいなら抱いても構いません。勝手な行いをなじるならば、どうぞご勝手に。近付くのが嫌ならば、この場所からでも声は届きます」
まるで虫でも見るように、賢者はわたしを見ていた。
おかしいのは、倫理にもとる行いをしているのは、賢者たちの方だ。本人の預かり知らぬところで、勝手に卵を奪い、子を成しているなど、あり得ない。
けれどそれを、非難される覚悟があって、彼らは行っているのだ。
その上で、賢者はわたしに問うている。
お前には、同じ覚悟などないのだろうと。
「まあ、あなたには時間があります。好きなだけ、考えて下さい。あなたは今日初めて、知ったのですからね」
蜜蜂が、力を合わせて雀蜂を殺すのを、ただ遠くから観察するような目をして、賢者は微笑んだ。
「ただ、あなたが決断を下すその時まで、御巫が無事とは限りませんが。僕に用意出来る最高の医療体制をととのえているとは言え、妊婦も胎児も必ず守れる保証はありません」
「どうして」
「それが自然の摂理ですよ。どんな生き物も、己の血を残すのは命懸けです。まあ、御巫の場合はそれを、他人の血を残すためにやっているので、生物としては狂っていますが」
そんなことを言いながら、賢者は相変わらず慈悲を口にする。
「あなたのせいではありませんよ。我々が我々の事情で、身を危険に晒しているだけです。だからあなたはなにも気にせず、好きなだけ考えていて下さい。ご自身の身の振り方を」
子供はすぐに死にますからと、賢者は躊躇いもなく言い放つ。
「まだしばらくはあなたを自由には出来ませんが、あの子が十二まで育つ頃には、あなたを好きに外出させることも出来るでしょう。故郷がどうなったか、見に行っても構いませんよ」
まだ、乳母車に乗った子が、十二になるまで、何年かかる。
「御巫としては、そこまで黙っておいて、なにも知らぬままのあなたを、自由にして差し上げたかったのでしょうね」
わたしに知れとそそのかしておきながら、賢者は悪びれもせずそんなことを言う。
「今なら御巫はあなたが知ったことを知りません。このまま知らぬ振りを続けて、自由になれる日を待つのも、ひとつの道ですよ。あなたは空帝。御巫を使い潰して生き残ることが、許される存在です」
「そんな、言い方」
「事実ですよ」
賢者は笑っている。いつも通りに。
「そして史実です」
「史実」
「空帝はいつだって御巫を犠牲に、使い潰して、生き残って来ました。それを知りながら、知らぬ顔をして」
賢者はそれ以上、わたしにどうするか問うことはしなかった。
「さあ、戻りましょうか。突然思いがけぬことを聞いて、驚いたでしょう」
わたしの背中を押して、窓辺から遠ざける。
「今日はもう戻って、ゆっくり頭と心を整理したら良いでしょう。時間はまだ、あるのですから」
それにと、賢者は優しげな声を出す。
「あなたが決める必要はないのです。あなたが決めずとも、御巫はあなたを守り、良きように取り計らってくれるのですから」
甘い甘い、毒のような言葉を、賢者はわたしに流し込む。
そうしてそのまま、部屋に戻されて。
「疲れたでしょう。お休みなさい」
最後まで慈悲の言葉を口にして、賢者は立ち去った。
その、扉の向こうにこそ、わたしは耳を澄ませなければいけなかったのに。
「いつだって、そうして空帝は御巫を殺すのだから」
末の王女として、愛されて、可愛がられて。誰もわたしに、なにかを決めることを求めたりしなかった。ぜんぶ父が、母が、兄が、侍女が、侍従や騎士が、決めてくれて。それであの日まで、あの夜まで、なんの問題もなかった。
そんなわたしに、なにかを選ぶなんて、決めるなんて、出来はしない。
わたしはどこまでも無知で、愚かだった。
つたないお話をお読み頂きありがとうございます
作中、おぞましいと言われているのは
当人の許可を得ない卵子の摘出と利用についてであり
卵子提供や代理母に対してではありません
また、前書きの通り、推奨・批判どちらの意図もございません
続きも読んで頂けると嬉しいです