三千寵愛在一身
それからわたしは、熱を出したらしい。
すぐには信頼出来る侍女など用意出来ず、ジャックがわたしの世話を続けて。けれど熱に魘されるわたしは、抵抗することも出来なかった。
もとの場所では設備が不足するからと、熱で朦朧としているあいだに、どこか別の場所へ運ばれたらしい。
ジャックの世話は献身的で、優しく、丁寧で。城にいた時となんにも変わらなかった。
それでもわたしは、ジャックを恨まずにはいられなくて。
「ご機嫌いかがですか、空帝」
突然現れたこの男には、そんな思いなんてお見通しだったのだろう。
「あなたは」
「会ったのは初めてではないですが、顔を見せるのは初めてですね。ヴァルグランダの賢者です。まあ、もう隠居の身ですけれど」
隠居を名乗るには、その顔はずいぶんと若い。
「その歳で、隠居?」
「見た目ほど若くはないもので。どう見えているかはわかりませんが、これでも五百年ほどは生きていますよ」
「ごひゃ……!?」
ぎょっとしたわたしに、賢者はくすくすと笑って見せた。
「人前に出るときは、老爺のふりをしています。この姿はお忍びで出かけるときですね。この姿で僕が老人だと気付けるのは、御巫くらいのものですよ」
「御巫」
「賢者と違って、御巫は長くは生きられません。ただ、魂と記憶を引き継いでいる。対する空帝は、長くを生きることも、魂や記憶を引き継ぐこともなく、ただ、その力だけが受け継がれる」
賢者は笑って、いちばん辛いのは御巫でしょうねと呟いた。
「僕は忘れることも出来る。長いときの中、多くの記憶が薄れて、必要な知識だけが僕に残っています。ですが御巫は違う。御巫は忘れぬ呪いを己に課しています。どんなに辛い記憶も、忘れたい痛みも、すべてを生々しく、その魂に刻み込み抱え込んでいる。いまだに正気を保っているのが、不思議なくらいですよ」
ジャックは賢者のことを、老師と呼んでいた。
「僕のように長生きしても、痛みは辛いものですが。御巫は死んでも魂と記憶が引き継がれるとわかっているからと、己を簡単に使い潰します。それを止められるのは空帝だけなのに、空帝は記憶を引き継がない。自分のために御巫がどれだけのことをして見せるか、知らない空帝は止めもせず、平気で御巫を使い潰す」
「なにが言いたいの」
「今代の御巫は幸せですね」
賢者は笑っている。
「空帝を、周りに空帝と知られぬまま抱え込むことが出来ました。このままあなたが平穏に生き延びてくれれば、彼女が自分を使い潰すこともない」
反論しようとした口は、向けられた視線に止められた。
「なぜ御巫が女の身で騎士になどなったのか。あれほど手際の良いクーデターで、あなたを逃すことが出来たのか。今は和平を結んでいるとは言え、敵国の賢者と協力出来たのか。憎む前に考えるべきことが、あなたにはあるように思いますよ。御巫は空帝を守るためだけに存在しますが、彼女は御巫である前に、ひとりの女性です。まして今代の御巫は、御巫であることを隠して生きていました。視えるからと言って、なんでも思い通りになるわけではなく、使えるものも限られて。よくまあここまで出来たものです」
「すべて、わたくしのためであったと?ですがそれも、利己的な理由でしょう。空帝がいなければ、あなたがたは生きられないのだから」
賢者は笑っている。ジャックと似た笑みだ。そうだ。ジャックもよく、笑っていて。
それは処世術だと、彼女は言った。
「そうですね。空帝がいなければ、僕らは生きられない。空帝がいなければ、この大陸はヒトの生きられる土地ではなくなるから」
「え……?」
予想外の言葉に、耳を疑う。
「どう言う、こと?」
「そのままの意味ですよ。空帝がいることで、この大陸は女神の加護を受けられる。女神の加護がなければ、大陸はたちまちに瘴気に被われ、ヒトもケモノもみな狂って殺し合いを始める。だから、御巫も賢者も、なにを犠牲にしても空帝を守るのです。そのほかすべてを犠牲にすることと比べたら、どれほどの犠牲でも少ないものですから」
賢者は、笑っている。
「僕らは空帝を守ることで、今を生きる者も、これからこの大陸に生まれる者も、すべてを守っているのです。個人のわがままでどうにかして良いことではないし、空帝の継承を絶やそうとする者を、決して許すわけには行かない。この先、生まれるかもしれない八百万の命すべてを、失わないために」
どうして。
血の気が下がって、唇が戦慄いた。
だって、ジャックも賢者も、わたしのことを。
「どうして」
わたしは、そんな、重たいものを背負わされて。
「どうして、笑えるの」
笑顔なんて、とても浮かべられはしない。
「賢者が難しい顔をしていると、不安になる方々がいますから」
返された答えは、いつかジャックも口にしたものだった。
「そうそう。そんなことを話に来たわけではないのでした。嫌ですね、歳を取ると、物忘れがひどくて」
笑えない冗談を口にして、賢者は笑う。
「しばらく、御巫が顔を出せなくなります。代わりの侍女がやっと手配出来ましたから、不自由はしないと思いますが、念のためお伝えしておきます」
「どうして、ジャックは来ないの?」
「おや」
笑みのまま、賢者は首を傾げる。
「てっきり、喜ぶかと思いましたが。だってあなた、憎んで嫌っているのでしょう?今代の御巫のことを」
「それは」
それでも、ここでは唯一、気兼ねなく話せる相手なのだ、ジャックが。それ以外は、顔は知っていても話したことのない相手か、ヴァルグランダの人間しか、ここにはいないから。
「まあ、僕には関係のないことでしたね。彼女は自分の役目のために、少し留守にするだけですよ。命の危険もある役目なので、お別れがしたければ顔を出すように伝えますが」
「命の危険のある役目?」
「己の生命に代えても空帝を守ることが、御巫の役目ですからね。それは、命を失うこともありますよ」
賢者は笑って言う。
「嘆くことでもありませんよ。本人も嘆きはしないでしょう。たとえ死んだとしても、御巫はその魂と記憶を保ったまま、また生まれますから」
「そん、な、こと」
どうして笑って言えるのだ。
「今代の御巫の身体はよく鍛えられていますから、失われるのは少しもったいないですが、まあ、今代の空帝は現状安全な場所にいますからね。鍛え上げた身体の御巫でなくても大丈夫でしょう」
「あなたたちは、ひとのいのちを、なんだと思って」
「そう言う存在なのですよ、御巫とは。平気で自分を使い潰す。己の保身なんて、少しも考えない。だからあなたに恨まれてもなじられても、平気な顔をしていたでしょう」
嫌って良いと、ジャックは言った。それだけのことはしたからと。
「御巫は空帝のためなら平気でヒトを殺します。その"ヒト"のなかには、御巫自身も入っている。御巫が好んで使い潰さないものなんて、空帝と賢者くらいのものですよ。それ以外は平気で使い潰します。最初はそうでもなかったようですが、何百回と死に続ければ、命の重みも軽くなるのですかね」
「何百回も?」
「僕は四代目の賢者です。賢者は長くとも二千年ほどで代替わりしますが、御巫は同じ魂のまま、ずっと記憶を保ち続けていますから、数え切れないほど自分の死も空帝の死も見ていますよ」
人間は、そんなに長いあいだ、正気を保てるものなのだろうか。
ほんとうは、遠い昔に正気など失って、すっかり狂気に呑まれているのが、ジャックなのではないだろうか。
「どうして、そこまで?」
そうしなければ大陸が滅びるからと言って、ずっと苦しみ続けるなど、どうして出来るのだろうか。なぜ自分だけがと、思わないのだろうか。すべて投げ出したいとは、思わないのだろうか。
「さあ。僕に御巫の気持ちはわかりません。僕自身は生きる場所を失いたくないからですが、御巫はどうでしょうね」
賢者は言って、さて、僕の顔を見るのも嫌でしょうから、そろそろ僕もお暇しますよ、なんて嘯いて、部屋を立ち去った。
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