夜型ロングスリーパー幽霊と夜活を
チョコレートの匂いがリビングダイニングに漂っている。
1LDKのアパートの中、発生源であるオーブンレンジの前には半袖の可愛らしいルームウェアを着た女性が立っていた。青みがかったハイトーンピンクのロングヘアが特徴的な彼女はうっとりした表情を浮かべ、甘い香りを楽しんでいる。
匂いを嗅ぐこと数分。リビングへと移動した彼女は、ローテーブルで読書している女性に声をかけた。
「紗英さん、ありがとうございます」
「もういいの?」
「はい」
満面の笑みを浮かべた彼女が言い、紗英の向かい側に腰を下ろす。
肩より少し上で切り揃えたダークブラウンの髪、紺地の半袖Tシャツと黒の長ズボン。紗英の姿は全体的に暗く、明るい色味でまとめた彼女が傍にいると地味に見えるが、紗英が気にする様子はない。
つけっぱなしのテレビから笑い声がする中、ぱら、とページを捲る音が微かに聞こえる。
時刻は十二時過ぎ。ただし昼ではなく、夜の十二時過ぎである。
全員が全員そうではないという注釈付きになるものの、女性は夜中の食事を躊躇う傾向にある。理由は至って単純で、太りたくないからだ。
事実、ここで暮らしている二人――七瀬紗英と月永小春も、少し前まで夜中の食事を避けていた。
にもかかわらず真夜中にフォンダンショコラを焼いているのは、ある出来事によって二人を取り巻く事情が変わったからに過ぎない。
小春が座って間もなく、焼き上がりを告げる電子音が鳴った。紗英はキッチンスペースに向かい、オーブンレンジのドアを開ける。
角皿の上には背の高いプリン型が四つ載っていて、あまり膨らんでいない生地の中央部分がひび割れ、窪んでいる。
熱と共に漂う甘い香りを吸い込んだ紗英は角皿を取り出し、プリン型の端につまようじを刺した。
「どうですか?」
「うん、焼けてる」
隣に来た小春に答える。
こういった焼き菓子の場合、生焼けになりやすい中心部分で確認するのが一般的だ。しかし、このフォンダンショコラは小さな板チョコレートを埋め込んでいるためそれができない。
まあ端が焼けてるから大丈夫だろう。それに――と、紗英は思う。
(私一人で食べるんだしね)
この四つすべてを紗英が食べるのだ。万が一のことがあっても体調不良になるのは紗英だけだから、それほど大きな問題にはならない。
空いた庫内にインスタントで作ったカフェオレを入れ、温める。その間にフォンダンショコラ一つをローテーブルに運び、夜食の準備を整えた。
「さーて……」
スマートフォンで写真を撮ってからプリン型の中心部分にフォークを刺し、口に運ぶ。
そしてその数秒後、うっとりと目を細めた。
焼き立てのフォンダンショコラは表面部分を除いてしっとりしており、それでいて中心部分はとろりと柔らかい。甘さもちょうどよく、やや苦めに作ったカフェオレとの相性も抜群だ。
「最高においしい」
次の一口を食べた紗英がうっとりしたまま言う。
「一個だけのつもりだったけど、焼き立てのうちにもう一個食べたい……」
「分かります」
対面席で紗英の様子を見守っていた小春は頷き、明るい笑顔で答えた。
「だって、すごくおいしかったですから」
✦✦
朝起きると昼過ぎだった。
(……なんだ、まだ十二時半か)
UVカットカーテンのもと、スマートフォンを確認した紗英がもぞもぞと身じろぐ。
太陽が本領を発揮し始めた七月十日の水曜日、七瀬紗英はベッドの中にいた。寝坊と呼ぶには遅すぎる時刻を確認しても一切動じることなく、寧ろ早起きを後悔している。
目覚めから約二十分後、ソーシャルゲームのスタミナ消費とSNSのタイムラインチェックを終えた紗英はようやく体を起こした。眠たげに欠伸をしながらベッドを出て、隣のリビングで眠っている同居人を起こさないようスライドドアをそっと開ける。
「あつ……」
寝室よりも蒸し暑い空気に思わず呟く。
部屋の真ん中に設置した横長のローテーブルと、壁際の32インチテレビ、小説と漫画がぎちぎちに詰められた三段のカラーボックス四つ。
女性の一人暮らしだというのに――もしくは女性の一人暮らしだからか――紗英のリビングには「部屋の見栄えをよくしよう」という意識が欠如していた。おしゃれなインテリアや部屋を華やかに見せる飾りの類は一つもなく、やや大きなノートパソコンと家庭用ゲーム機が幅を利かせている。
そんなリビングの中、一人の女性が不意に姿を現した。
長い髪を青交じりのハイトーンピンクにした彼女はとても可愛らしい。だが、この部屋にその可愛らしさは不釣り合いだ。
「紗英さん、おはようございます」
「おはよう」少し眠たげに返事をした紗英が尋ねる。「もう起きたの?」
「思ったより早く目が覚めちゃって」
きっとお昼がそうめんだからですね、と彼女――月永小春は微笑む。
今日の小春はミントブルーのカットソーに白いスラックスを合わせていて、傍目には「これからランチデートの予定が入っている」ような雰囲気だ。しかし、実際の予定は「1LDKの賃貸アパートで紗英が作った何の変哲もないそうめんを紗英と共に食べる」のみ。普段着飾る習慣がない紗英には「出かけもしないのにおしゃれをするのは可愛さと労力の無駄遣い」だと思えてならない。
だが、その無駄遣いこそ小春の望みなのだと知っている紗英は何も言わず、ただ「そっか」と答えた。
「じゃあ結構待たせちゃったのかな。ごめん」
「そんな、紗英さんが謝ることじゃないです! 私が勝手に早起きしただけですし」
小春は力強く言い、それに、と付け加える。
「楽しみにしてることを待つ時間って、それ自体がすごく楽しいですから。ずっとわくわくしてました」
「だったらよかった」
微笑み返した紗英はエアコンを入れ、身支度を済ませるべく洗面所に向かう。
約十分後、黒い半袖Tシャツに黒ズボン姿でリビングに戻った紗英は「それじゃあ作りますか」とキッチンスペースに向かった。
「やったあ!」
そうめん、そうめん、と小春は子どものように駆け寄る。――小春は二十四歳だが、あどけない顔立ちや可愛らしい仕草も相まって二十歳くらいにしか見えない。
かつての自分も年上の人間から見ればこんな感じだったのだろうか。六年前に思いを馳せながら鍋で湯を沸かし、一人分のそうめんを茹でる。
つい今しがたまではしゃいでいた小春は、無言で紗英の傍らに佇んでいた。湯気が立ち上る鍋に顔を近付け、ただ匂いを嗅いでいる。
昨夜のうちにめんつゆを作っておいたこともあり、そうめんは五分と経たずに完成した。夏らしく透明のガラス皿に盛り付けたそれをローテーブルに運び、思い出作りのためスマートフォンで写真を撮る。
「じゃあ、いただきます」
紗英は両手を合わせ、氷水で冷やしたそうめんを口に運んだ。
「おいしいですか?」
「うん。そうめんって感じ」
そう答えてから、語彙力のない返答をしてしまったと思った。
しかし、そうめんとはそういうものではないだろうか。「伸びていない極細麺に鰹だしが絡んでおいしい」「そうめんで体が冷えていく感覚も含めて食べ応えがある」など細かく説明することもできるが、率直な感想は「そうめんって感じでおいしい」に収束する。白米を食べたあと「炊き立てでおいしい」と表現するのと同じだ。
「小春ちゃんは……どう?」
「めんつゆの味ですね」
匂いを嗅いだ小春が答える。それ以上でも以下でもないと言いたげな口調だった。
「……期待外れだった?」
あんなに楽しみにしていたのに。恐る恐る尋ねた紗英に対し、小春は柔和な笑みを浮かべて言う。
「そんなことないです。いかにも『そうめん』って感じで夏を実感しました」
「そう?」
「はい。鰹だしにしてもらったおかげで実家の味を思い出せましたし、全然期待外れじゃなかったですよ」
そう続ける小春の声に物悲しい響きはない。――少なくとも、紗英には感じられない。
「……そっか」
だったらよかった。そう続けた紗英は微笑み、食事に戻る。
一方、小春は紗英の食事をにこにこしながら見守るだけで、そうめん一本口にしようとしない。小春は紗英のように「物質」を食することができないのだ。
(小春ちゃんに出会って三か月近く経ったけど……小春ちゃんが幽霊だなんてまだ信じられない)
青みがかったハイトーンピンクのロングヘアと、あどけなく柔和な顔立ち、やや小柄で華奢な体型。
今風の可愛らしさを詰め込んだような彼女は、享年二十四歳の故人である。――つまり、世間で言うところの「幽霊」だ。
霊感がない紗英に小春が認識できる理由は未だに分からないものの、実体を持たない彼女が「飲食物から発せられる香り」と「香りに基づいた味」を得られる理由についてはある程度見当がついている。――「香食」システムだ。
インターネットで調べたところ、仏教では「四十九日を迎えるまでの故人は供えられた線香などの香りを食事の代わりにする」と考えられているらしい。小春が紗英の食事からのみ匂いや味を得ることができるのはこのシステムに組み込まれているからだろう。
ただ、香食は「浄土での食事」であって「現世を彷徨っている小春」に適用されるものかは不明だし、そもそも小春は四十九日を過ぎているそうだが……。仏教に詳しくない紗英に香食のシステムを正確に理解することは難しく、不可解な現状を受け止めるだけに留めている。
(小春ちゃんが寝る理由だって分からないんだしね)
実体を持たない小春は睡眠を取る必要がないはずだ。しかし、現状の小春は、未明に眠って昼過ぎに起きる生活を――生活と呼ぶのが正しいか不明ながら――送っている。生前との「違いは夢を見ないこと」だけで、眠気も明確に感じるらしい。また、この生活スタイルは生前の『夜型タイプかつ毎日十時間近い睡眠を必要とするロングスリーパー体質』が反映されている可能性が高いとのことだった。
「――ごちそうさまでした」
分からないことをあれこれ考えても仕方がない。一人分のそうめんを食べ切った紗英は手を合わせた。それに倣い、小春も「ごちそうさまでした」と挨拶する。
「ああ、おいしかった。やっぱり夏はそうめんですね」
「そうだね。まだ残ってるから今度食べよう」
「はい!」
小春は元気よく返事をし、にこっと笑う。
その輝くような笑顔を見ていると、彼女がまだ生きているように錯覚してしまう。今の小春は出会ったときのように体が透けていないから、なおさら。
だが、小春は紛れもなく故人で、本来この世に留まってはいけない存在なのだ。いくら小春が良き同居人であっても、その事実を忘れてはならない。
(寝具店の前で恨めしそうに佇む小春ちゃんを見たときは「やばいものが視えた」って思ったけど、今は出会えてよかったと思ってる。だから……小春ちゃんの心残りを少しでもなくしたい)
今でこそ溌剌としている小春だが、生前は優等生タイプで常に人目を気にしており、夜遊びはおろか髪を染めたことすらなかったらしい。
今はできないけど、いつか自分がしたいと思うことを全力で楽しみたい――。そう思いながら生きていたという。
それなのにある日突然耐えがたい苦しみに襲われ、ようやく苦しみが治まったときには既に故人になっていて。
実体がなくなった影響で髪色や服装をある程度自由に変えることはできても、友人とオールをしたり夜中に甘いものを食べたりすることはできなくなっていた。
『――今になって思うんです。こんなことなら人目なんか気にしないで自分がしたいことをすればよかったって』
切なげな発言を聞いたとき、紗英は息が止まるような衝撃を受けた。
周りから浮くことを恐れて「したいこと」を押し込めてきた自分の姿を、小春の言葉の中に見いだしたから。
『……だったらさ』
沈黙の末、紗英は口を開く。
『もしよかったら――私と一緒に夜活してみない?』
小春は既にこの世の存在ではないけれど。
小春の真の望みを叶えることはきっと誰にもできないけれど。
小春と同じ夜型ロングスリーパー体質の七瀬紗英を「年上の友人枠」に据えて、したいと思っていたことを可能な限りすればいい。
――小春と紗英が思い描いていた「いつか」のタイミングは、他でもない「今」かもしれないから。
(まあ……流石に一年ちょっとが限度だけどね)
小春と共に心ゆくまで夜更かしして、食べたいものを食べたいときに食べて、毎日十時間前後寝て。長期休暇中の学生のような生活を送れる勤め人はごく一部だろう。
つまり、小春は現在勤め人ではない。小春と出会う少し前に勤め先の工場を辞めたばかりなのだ。
金銭面に不安がないと言えば嘘になるが、多少の貯蓄と退職金があるし、先月から失業保険も受け取っている。次の勤め先を探しながら夜活も楽しめるいい機会だと捉えたほうが前向きに生きられるだろう。
(次は朝のラジオ体操がない会社に勤めよう)
工場勤務という性質上、朝一番のラジオ体操は理に適っているのだろうが、人前でラジオ体操しなければならない状況が週五日も続くのははっきり言って苦痛だった。
それを踏まえると次の職場は工場以外に限定される。しかし、工場以外で元・検査員の紗英を雇ってくれるところはあるのだろうか――。
「ふあ……」
真剣に考えているにもかかわらず急に眠くなり、つい欠伸が出た。ちなみに、今日の睡眠時間は約八時間である。
十時間前後眠らないとベストコンディションにならないなんて睡眠の燃費が悪すぎる。損をした気分になっていると、小春が小さく欠伸をした。
「私も眠くなっちゃいました。やっぱり十時間は眠らないとだめですよね」
小春は然も当然のように言う。
その言葉を聞いた紗英は目を丸くしたが、やがてふっと笑った。
「そうだよね。――それくらい寝ないと調子出ないよね」
答えながら、実家暮らしをしていた十代の頃を思い出す。
当時、紗英は朝型の母親から度々小言を言われていた。「早く寝ないから朝起きるのがつらいんでしょ」「休みだからって昼まで寝るのはやめなさい」――。あの頃は睡眠に関する情報が現代ほど広まっていなかったこともあり、ただの「夜更かし癖が抜けない娘」と思われていたのだ。
紗英にとっては「日中は眠いのに夜になると目が冴えて眠れない」「平日の睡眠時間が十分ではないから休日に不足分を補うしかない」のだが、睡眠タイプが異なる母親にその事実を理解してもらうことは難しい。
結局、紗英は母親から理解を得ることを諦めた。それと同時に、社会が推奨する「朝昼中心の暮らし」に合わせるのが難しい自分に負い目を抱えて生きるようになった。
あの頃から十数年。「夜型」「ロングスリーパー」という自身の体質は何一つ変わっていない。
だから、負い目がなくなったわけではないが……。小春と「夜活」を始めたことで、ほんの少しだけ考えに変化があった。
たとえ自分の体質が社会生活に適したものではないとしても、そんな自分を頭ごなしに否定したり、卑下したりする必要はないのかもしれない――。そう思えるようになったのだ。
(……次は私の生活サイクルに合いそうな仕事を探してみようかな)
そんな都合のいい仕事が近場にあるか分からないが、ダメ元で探してみるのも悪くない。
前向きに考えた紗英は明るい笑みを浮かべ、小春に声をかける。
「ね、カフェオレ飲んで昼寝しない?」
「わあ! それ最っ高です!」
小春が声を弾ませて応じる。カフェオレは小春の好物なのだ。
紗英はにこにこしている小春を連れてキッチンに向かい、長年愛用しているマグカップでインスタントカフェオレを作り始める。
さて、生活リズムに支障をきたさない昼寝時間は三十分以内と言われているが、はたして三十分以内に起きられるだろうか。
(多分一時間くらい寝ちゃうんだろうなあ)
いくらカフェインを入れたところで強い睡魔には抗えない。小春に至ってはカフェインが一切作用しないから、アラームが鳴っているのを夢うつつで認識しながら寝過ごす羽目になるだろう。
まあ、少しくらい生活リズムが崩れてしまっても何の問題もない。何せ今の自分たちは無職と幽霊なのだから。
紗英は小春と共にカフェオレが温まるのを待つ。小春に負けず劣らず幸せそうな笑みを、無自覚のまま浮かべて。