未来はわからない
当たり前の話だが、未来というものはどうなるかわからない。どうなるかわからない、という事に未来の特徴がある。
こう書いた所で、別に多くの人は反論したりしないだろう。「そんなわけはない! 未来は予知できるはずだ!」という人は少数だろう。
しかし、不安に駆られた人々が知らず知らずに、未来を既知のものに変えようとしているのを、現代でも容易に目撃できる。「百年後、世界はこうなっている」とか「将来、〇〇はこうなる!」とかいった通俗本が溢れている。
未来の予測が可能なのは、科学理論が近代に輝かしい業績をあげた為だろう。十年後、百年後の月の位置が正確に予測できる。それと同じように、様々な事も予測できるはずだ。このようなオプティミズムが、未来は予測可能だという思考を生んだのだろう。
確かに、物質の変化に関してはかなり正確に予測できる。しかし、人間や、世界の在り方といった根底的な事についてはどうだろうか? 私は、未来の人間には未来の権利があると思っている。だから、未来は予測不可能であるべきだ、と考えている。
逆に言えば、未来が完全に予測できる社会は、人間の権利や意志を奪い取った全体主義の社会であるだろう。これは、我々を牢獄のように閉じ込める事だけを意味しているのではなく、現代のように明るいユートピアのような姿で、我々の感情や意志を麻痺させる事も含んでいる。
仮に未来が予測可能ならば、それは今生きている我々の理性の範囲内に、未来というものが収まっているという事を意味する。それでは、未来の人達が自分達の理性で世界を認識したり、行動したりするという、その自由性は一体どうなるだろうのか?
「未来はどうなるかわからない」と言いつつ、未来が不確定である事に不安を感じて、未来を現在の延長だと人は思おうとする。未来は未来で勝手にやっていくだろうとは思えず、「日本国は永久に不滅である」のような事を言いたがる。
日本が永久に不滅かどうかよりも、未来の日本人が自らの意志で、自分達の自由を行使して生きる事の方が、私は大切だと思う。「日本」というものを、いわば、コールドスリープのような形でギチギチに冷凍して、永久に保存した所で、それは虚しい存続に過ぎず、結局は「日本」を殺したのと同じ意味にしかならないだろう。「日本」がどうなるかは、その時々の日本人が自らの力で決定していくべきだろう。
この事は、生が不確定なものだという事を意味している。この不確定性に嫌気がさした時、人は時間というものを硬直的に考えようとする。
「人類はこの先、どうなると思いますか?」
このような問いに単純に答える事はできない。「今、生きている我々がどう思おうが、未来の人類は我々の推量を越えて生きていくだろうし、私としてはそれに期待したい」 こんな風にしか答えられない。
中学生の時、眠れない夜、世界の終わりを考えて恐ろしくなった事がある。人類は死滅し、地球も壊れて、真っ暗な宇宙の虚無だけが残される。そんなイメージに私は恐ろしくなった。その時の私はいっぱし、哲学的な事を考えているつもりだったが、それは間違いだった。哲学は、そんな所では留まりはしない。
…最後に、私は私が最も好きな未来のイメージに関する詩を引用して、この稿を終えよう。下記の詩には、「あるいは白亜紀砂岩の層面に/透明な人類の巨大な足跡を/発見するかも知れません」といった語句が見られるが、これは詩人が本当にそういう状態を予想しているわけではない。
詩人が言いたいのは、いわば、「なべて移ろいゆくものは比喩に過ぎず(ゲーテ)」といったような、未来のビジョンを示しているのであり、具体的な未来の可能性を指示しているわけではない。詩人が言わんとしているのは、未来には未来のビジョンがあるであろう、という事についてのイメージだ。
だから、「透明な巨大な足跡」が未来に発見されなくても、詩人は未来予測を外したという事にはならない。未来予測が不可能な未来を詩人はイメージしているのだ。実際、現在、一部の科学者は世界は11次元で成り立っている、と超弦理論の方面から主張している。
この主張はいわば、「過去とかんずる方角」からは、「透明な人類の巨大な足跡」のように不可思議な発見(主張)に思われることだろう。過去からはとても予測できない「今」が具現化した一例に見えるだろう。にも関わらず我々はそれを普通の事として受け止めているのだ。
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
(宮沢賢治 「春と修羅 序」より)