下界
アマデウスは手に入れた地獄界の魔導書の手触りを確かめながら、中身を確認し始めた。そしてそれは当たり前のようにラベール大陸のだだっ広い草原で行われている。
まだどんな危険物なのかわかっていないのだから仕方がない。何かが暴発するとも限らないため安全を考慮してのこの場所だった。
問題の魔導書は朱色に近い赤の表紙に金の縁取りがされていて、表紙には地獄界の魔導書という文字がある。それは手にしているとなにやら痛みのような苦しみのような、胸を締め付けられるような感覚を覚えるものであったが、アマデウスは気にせずにページをめくった。
その地獄界の魔導書には現界の魔導書と同じように挿絵も入っているが、その挿絵があまりにも忌避されるような内容で、想像を絶する恐ろしい拷問やむごたらしい処刑の方法なども書かれている。
魔術の行使に必要なのかと疑問に思われるものばかりであるが、地獄界の理を記したものと考えればある意味それは自然なものだった。
地獄界は現界ではもちろん、そのほかの領域で拭いきれない罪を背負ったものを罰するための世界なのだ。もちろん神界にいるとされる天使もその罰の対象となる。
そういう世界の魔術ともなれば、やはりどれも残酷なものばかりで、アマデウスはこの魔導書を使う気にはとてもなれなかった。拷問用の魔術を大賢者が使うなど倫理観や自尊心などありとあらゆるものがそれを許せないのだ。そしてどうにも人聞きが悪すぎる。
そうなってくると相手方の魔術師に渡さないように拾ったはいいものの、これをどうすれば良いかはアマデウスには全くわからなかった。だが賢者たる者知識欲には勝つこともできず、とりあえず少しだけと少しずつ読むうちに、いつの間にか貪るようにページをめくり続けていた。
どれもこれも実践で使うことはまずないだろう魔術。そのどれもが非常に強力で勘違いしやすい者ならきっと全能感で満たされてまともとは言えない人間になるだろうことが予想された。この魔術を扱うことのできる知識と魔力を持つ者には限られてくるが。
アマデウスは尋常ではないものを手にした実感に高揚していることにようやく気が付き、一旦着こうと本を閉じる。するとふと、アマデウスは彼の前に黒い影が佇んでいることにも気付いた。
太陽は出ているのでいつも通り明るい草原の中なのだが、目の前のとある部分だけ妙な影のようなものができているのだ。何かが太陽を遮っているようなのだが、それも完全ではないらしく薄っすらとだけ黒くなっている。特に何かがあるわけでもないのにこれは不自然の極みだった。
アマデウスは首を傾げながらその様子を見守っていると、突然その黒い影がムクムクと正体を現した。出てきたそれは姿かたちだけは人型のそれだが、決して人間ではない何かだった。頭にはヤギのような角があり、髪と呼べるのか怪しい茶色がかった白い毛がふさふさと体を覆っている。
肌の色は緑のような黒っぽい色で、目は赤く血走っており、見る者が恐怖を覚えるような、そんな顔立ちをしている。ここまでの特徴があれば、賢者のアマデウスにはこれの正体が何だかわかった。
「悪魔……だな。魔界はどうしたのだ? お主らはそう簡単に現界へは下りて来られないはずだが」
悪魔はアマデウスの問いに醜い牙を見せながら答える。
「貴様のような死に損ないの知ったことではない。それよりもこの濃密な魔力はその魔導書から溢れているのか?」
「それこそ悪魔に教えてやる義理はないと思うがな」
「生意気な人間だ。我ら悪魔の力を知らないのか?」
「知っておるが別に恐ろしくも何ともない。ところでお主、何をしに現界へとやって来た? 返答次第では退治せねばならん」
「はっ。退治だと? 貴様のような老いぼれがか? 笑わせてくれる」
悪魔はアマデウスのことを酷く馬鹿にしたように嘲笑った。侮辱されてはいるものの、アマデウスはそれに気を悪くするでもなく、ただ淡々と悪魔にこう告げた。
「その様子だと現界に下りてきたのは初めてのようだな 魔術師相手に油断は禁物だとよく覚えておくと良い」
悪魔がたちどころに危機感に駆られて周りを見ると、僅かに空間が歪んでいるのがわかる。その理由はこの悪魔の足元の魔法円。アマデウスは会話の間にこんな複雑な魔法円を着々と展開していたようだ。
「このようなものが何の役に……」
悪魔が無理やり円の外に出ようとすると、バチッと鋭い音がして悪魔の腕を跳ね除けた。それから悪魔は幾度となく手を伸ばすが、すべて弾かれて払いのけられた。
「無駄だ。悪魔避けの魔法円は悪魔であるお主には破れん」
「クソッ! ふざけたことを!」
「性に合わん悪魔召喚の魔術の知識もたまには役に立つものだ。それで、わたしの質問に答えてもらえるか」
「なぜ答えてやらなくてはならないのだ」
「悪魔よ、自分の置かれている状況が分かっておらんのか?」
「あ?」
悪魔が悪態をつくと、途端にその体が光によって焼かれ始めた。草原の真っただ中に悪魔の醜い悲鳴が広がる。
「これだから悪魔関係の魔術は好まぬのだ。まあ悪魔なんぞに誑かされる人間が減るならやるしかないのだが。それで、どうやってこの現界に来て、何をしに来たのだ?」
しばらく悪魔が沈黙を貫くと、アマデウスが先ほどと同じく右手を掲げて光を生み出す。それで抵抗しても無駄だと悟ったらしい悪魔は慌てて質問に答えた。
「どうやってかは知らないが、人間の魔術師によってここに呼び出された。都合が良いから別に問題はないがな。他の奴も好き勝手に暴れているようだ」
「何!? 他の奴ということは数匹呼び出されたのか?」
「ああ。自分以外にも何匹も呼び出されたようだぞ」
「なんということだ……ということはお前は自分の意志でここに来たわけではないということか……」
アマデウスはブツブツと独り言を言いながら考え事を始めてしまった。
魔術師が悪魔を呼び出すこと自体は珍しくないのだが、通常は一匹制御するだけで精一杯だ。そもそも悪魔召喚の魔術は念入りに悪魔避けの魔法円を組み立てるわけだが、その大きさは一匹しか入らない程度のものだ。
つまり数匹一気に呼び出すのは無茶がすぎるし、そんな魔術は今までアマデウスでさえ聞いたことがなかった。異常なほどの強力な魔術となれば考えられることは一つ。
「悪魔よ、その魔術師というのはこれに似た本を持ってはおらんかったか? 色はともかく形とか厚さはおそらく同じかと思うが」
「そういえばそんなものを持っていたような気もする」
やはり。アマデウスの中で何かが腑に落ちた。それがわかれば今すぐにでも魔界の魔導書を取りに行かなくてはならないのだが、一つ無視できない問題があった。
頭上で黒い影が幾つかの筋を残して通り過ぎる。目の前のと同じ、悪魔の影だ。
「大量の悪魔が現界に入り込んだというのは本当のようだな。やれやれ……」
「質問に答えたのだからここから出せ」
「確かにお前さんに構っている暇はないな。すまんがさっさと済ませるとするか」
「な、何をするつもりだ!?」
アマデウスが真語の言葉を唱え始めると、みるみるうちに悪魔の体が光に包まれていく。最初の内は悪魔もわけもわからない悲痛な叫びをあげていたのだが、次第にそれも薄れていき、とうとう声が聞こえなくなるとその体が魔法円ごとすべて消え去った。
悪魔も含めて何もかも光に消えて、最後には平和な草原だけが残ったのだった。




