ネプテ(眠い)
「それじゃあ、いよいよ赤梵天に対抗する訓練を始めるぞ」
明くる朝の早朝、レジーナたちは眠い目をこすりながら、山の入り口に整列していた。
昨日までハッピ姿だったミヒラの庄の男たちはすっかりと元通りのマタギ衣装になり、マタギの顔になって整列している。
「アンタたちには悪いけど、アンタたちはまだまだ山の素人だ。このままじゃ赤梵天を魁神砲の射程圏まで追い立てることなんて出来やしない。これから一週間、私たちがつきっきりでアンタたちを鍛える。いいな?」
「こ、こらユキオ、お客さんにはもっと腰を低くして丁寧にだな……!」
「何言ってんだよ父さん、アンタがこの村の頭領なんだぞ、小マタギを躾けるのは頭領の役目だろうよ」
「お、お客さんたちすみませんねぇ! なんだか無理やり協力させちゃってるみたいで……!」
「ぐぅ……そう思うならせめてもう少し寝かせてもらいたいのだがな……ZZZ」
ムニャムニャとそう言い、イロハは半分夢の世界に旅立っていた。
まだ夜も完全に開けきらぬ、朝靄のたなびく時間帯である。
三人はそれぞれ大あくびをかいたり、目をこすったりしながらかろうじて立っていた。
「よし、まずは巻狩りの基本、勢子の勉強からだ。私たちの指示する通りに動けるようになるまで繰り返すからな」
「ZZZ……セゴ……セゴってなんだや……? トンボの幼虫だが……?」
「それはヤゴだろ。勢子は獲物を目標の位置まで追い立てる役目だ。山のことを覚えるなら勢子につくのが一番だからな」
「えへへ……もう食べられませんよぉ……そんなおっぱいばっかり吸っちゃらめれすぅ……ZZZ……」
その途端だった。ズドン! という轟音が発し、船を漕いでいた三人は危うく失禁しそうな程に驚いて目を開けた。
唖然とするヘイキチの側で、ユキオがシロビレの銃口を天に向け、鬼の形相でこちらを睨んでいた。
「おいアンタたち、眠いからってあんまりアホなこと言ってるなよ? これから走り回る山は私たち人間の世界じゃないんだからな」
それはそれは――物凄い凶相であった。思わずぱくぱくと口を開け閉めすると、ユキオの目が白く冷たく光った。
「勢子っていうのが単なる鬼ごっこの鬼役だと思ってるんだったら、その先入観は捨てておきな。いいか、くれぐれも真剣にやれ。でないと――」
死ぬぞ――。
そう言ったユキオの口調は、冗談でも脅しでもなく聞こえた。
言葉の冷たさに思わずぶるりと怖気が走ったところで、フゥ、とユキオが殺気を治め、銃口を下げた。
「……とにかく、今回は本当にクマを追い立てるのは無理だから、この村のマタギがクマに扮装する。これを所定の位置に所定の時間まで追い立てるように。いいか?」
ユキオが示した先に、頭だけクマの被り物をかぶった男が大きく手を振った。
今からこれを追いかけるのか、こんな早朝の山奥で――あまりに間抜けとしか思えない己の境遇に、レジーナはなんだか激しく拍子抜けする気分を味わった。
「さぁ、それじゃあ早速練習開始だ。――それと、ギン」
「あぁ、レオ――いや、今はワサオか」
ユキオの側に控えていたギンシロウがノシノシと歩み寄ってきて、ワサオの鼻先で止まった。
ワサオはギンシロウの満月のような目を怯えることもなく見上げた。
「この子のことは我々男たちに任せてもらう。彼にはこれより我ら男たちの秘伝を叩き込む」
「ひ、秘伝――?」
「この里を守り、幾多のクマたちを屠ってきた秘伝だ。案ずることはない、バンザブロウ殿の血を引いた彼ならきっと会得できよう。覚悟はよいか?」
ぐるるる……と喉を鳴らしたギンシロウに、ワサオがワン! と吠えた。
その反応をどう見たのか、ギンシロウが口角を持ち上げて笑ったように見えた。
「ふふ、やはりお前には度胸があるな――来い、ワサオ。我らと共に」
ギンシロウはくるりと踵を返し、男たちを引き連れてどこかへと去ってゆく。ワサオは小さな体で駆け出し、その後に続いた。
「さぁ、愛犬の心配をしてる暇はないぞ。いよいよ練習開始だ。いいか、何度も言うけど、山をナメるな。命の危険があると思って真剣にやれよ。わかったか!」
ユキオの大声に、レジーナたちは欠伸混じりの返事をするのが精一杯だった。
◆
「お、おりゃーっ……おりゃーっ……」
「おいそこ! 何を遠慮してんだ! もっと腹の底から声張り上げろ!」
「おりゃーっ! おりゃーっ!」
「もっとだ! そんなんで生きてるもんがビビるか! もっと鬼気迫る声で追い立てろ!」
「おっ……うおりゃーっ!! うおりゃーっ!! おおーいっ!!」
「いいぞ! その調子で追い立てろ! そら登れ!」
ハァハァ……! と、ただでさえ山の斜面を登ることで息が切れるのに、この大声。
もうかれこれ三十分以上はユキオに尻を叩かれながら大声を発し続けていて、喉も痛くなってきた。
ユキオの話では、場合によってはこれを半日以上も繰り返すのだというから溜まったものではなかった。
じっとりと滲み出してくる汗を拭いつつ斜面を登ると、ゲホゲホ、とオーリンが苦しそうに咳き込んだ。
「あー、喉痛ぇ。ったぐ、朝がらこったごどしねばなんねぇってがや……」
オーリンはうんざりした口調でぼやき、遥か上まで続いている山の斜面を憎らしげに見上げた。
「ただでさえ山ば登るのに体力使う上に、ずっとこの声だ。腹減って仕方ねぇよ……」
「も、もう、そんなことボヤいてたら周りに聞こえますよ! ちゃんと頑張らないと!」
「ぐだめぎだぐもなるべじゃ。叩き起ごさえだど思ったら次は山でこいだぜ。面倒臭して嫌んたぐなるでぁ」
「そんなにボヤかずとも私だって同じ気持ちだ……この身体では山の登り降りも堪えるのだがな……」
イロハは全身を使って山の斜面に取り付き、美しい金髪を既に枯れ葉に塗れさせている。確かに、この運動はこの小柄では相当に堪えるはずだった。
それぞれ既にヘバりかけている三人を尻目に、ユキオはすちゃすちゃと、実に軽やかに山肌を登り、大声を張り上げて目標を追い立てている。
体力や慣れ以上に、根本的に山を歩く技術がこちらとは異なっているらしいことは明白な足取りである。
「畜生、どすればあったに山登れるようになるってな……なんかコツでもあるんだがや?」
「まぁ……長年の経験や慣れってことなんでしょうね……」
「経験と慣れか……一番厄介なものが足りんのだなぁ……」
三人が呆然と見上げている先で、ユキオは白い太ももを大胆に露出したまま、大股で山を登ってゆく。
もともとミニスカートばりの位置までしかマタギ装束の裾が届いていないため、女の自分から見てもそのさまはかなり際どい。
と――そのとき。ユキオが斜面の大岩に足をかけ、ぐいと身体を上にずり上げる。ただでさえ際どいユキオの太ももが更に露出され、陽の光に輝いたように見えた。
そのさまを虚脱状態でぼんやりと眺めていると、オーリンがはっと何かに気づき、ちょっと気まずそうな表情で視線をそらした。
「ったぐ、ただでさえ身が入らねぇってのに、先で引っ張るのがあいでば、なんぼなんでも目の毒だで……」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
レジーナとイロハは驚いた表情でオーリンを見た。
二人分の目に見つめられ、オーリンがちょっとたじろいだ。
「先輩……」
「お、オーリン……」
「な、なんだや?」
「先輩って……性欲あったんですか?」
「えっ」
オーリンがちょっと慌てたような表情でレジーナを見た。
「えっ、そ、そいづはどういう……」
「いやだって、仮にも、仮にもですよ、それなりに年頃の女の子二人と旅してるのに、先輩って待てど暮せど全然なんかそういう雰囲気ないし」
「えっ」
「いや、そなたが我々に手を出したりするような、そういう男でないことはわかっておるのだがな。いやしかし、私もいくらなんでもちょっと不自然だとは思っておったのだ」
「えっ、えっ」
「この際だからハッキリ聞いておきたいんですけど……先輩ってちゃんと女の子に対するそういう感覚あるんですよね? まさかの性別:オーリンとかないですよね?」
それなりに真剣なレジーナの声に質されて、オーリンは慌てた様子でもじもじと身を捩った後、何を考えたものかぺたぺたと己の身体をあちこち触って――それからガクガクと何回か頷いた。
「あ――あるんでねぇがな……?」
「ああ、よかった……いっぺん真剣に聞いてみないと、とは思ってたんですけど……」
ホッ、とレジーナとイロハは安堵のため息をついた。
「これで一安心だ……。このままだとなんだかオーリンが男であるということすらウッカリ忘れてしまいそうで……」
「す、すったごど思ってらったの!? まっと早ぐ言ってほすがったでぁ!」
「こんな奇っ怪なこと、面と向かって訊けませんよ……まぁ、とりあえずこれで安心ね、イロハ」
「そうだな……とにかくオーリンの性別が曲がりなりにも男であるという確認は取れたということでいいのではないか」
「曲がりなりにもってなんだや!? 俺はちゃんど男だって! レズーナは知ってらべや! ツボケがこの、アキウで俺の主砲ば突っついだくせに今更白々すぃ……!」
「こりゃーっ!! お客さんたちィーッ!!!」
突如、早朝の山の静寂を引き裂いて、野太い男の絶叫が山頂から降ってきた。うわっと声を上げて空を仰ぐと、狩り場が見渡せる尾根に立ったユキオの父、ヘイキチの声だった。
「馬鹿たれ! 鳴り声が止まってますよ!! このままではせっかくの囲みが破られてしまいますから困るんですけどねェ!! ちゃんと真剣にやれ!! もっともっと派手に騒いで声出していただけますかァ!!! 寝ボケてるんでねぇぞこのォ!!!!」
あんな豆粒にしか見えない位置からここまで、よくぞこの声量で届くものだと呆れるほど、その声は馬鹿でかかった。
なんだか怒られてるんだかお願いされてるんだかわからないこの口調で怒鳴られれば、あまりボヤボヤもしていられそうになかった。
仕方なく、レジーナたちは再び「おりゃーっ!!」と大声を上げながら、山を登る作業を再開した。
『じょっぱれアオモリの星』第一巻、2022年12月28日発売です。
これから「祭り」が始まりますので皆さんお付き合いください。
「たげおもしぇ」
「続きば気になる」
「まっとまっと読まへ」
そう思らさっていただげるんだば、下方の星コ(★★★★★)がら評価お願いするでばす。
まんつよろすぐお願いするす。





