タデ・バ・オサメル(マタギをやめる)
ゴボォ、ゲホゲホ、ガッハァ……! という肺病み患者の咳のような音が聞こえ続けていた。
レジーナはその音を大変不快に思いながら湯に浸かり、今度は本物であろう三日月をぼんやりと見上げていた。
この猛烈な咳の正体は温泉の湯口。普通はライオンなどであろう温泉の湯口がクマの頭なのは如何にもマタギたちの温泉らしいが、今日は温泉の調子が悪いのか、クマは先程から物凄い勢いで咳き込んでおり、その度に硫黄臭い湯が猛烈な勢いで辺りに飛び散る。
レジーナは自分まで飛んでくる飛沫を時々手で拭いながら、なんだか猛烈に疲れてしまった身体を静かに温泉で癒やしていた。
ハァ、とため息をつき、レジーナはひとりごちた。
「いやまぁ、温泉だけはまともでよかった……」
この上、温泉まで普通でなかったら、本当に自分一人でこの村を逃げ出していたかもしれない。
四六時中ハッピ姿の強面集団の無理やりな笑顔に見つめられ、いつ襲撃してくるかわからない化け物の来襲に怯え、挙句の果てにはその怪獣と戦うことになってしまった今。
行きずりの縁をもらうのは冒険者の常とは言え、いくらなんでもこの村に深く関わり過ぎではないのだろうか。
その懸念も、あの魁神砲とかいう兵器をひと目見てキャアキャア騒いでいるオーリンとイロハの前ではどうも言い出しにくいことだった。
結果、レジーナだけがなんだか莫大な疲れを抱え、こうして一人温泉に浸かりながら物憂げな時間を過ごすことになってしまった。
ハァ、と何度ついたかわからないため息をついて、レジーナは再び空の三日月を見上げた。
雄大なヴリコの山々の影を照らし出しながら、曇りひとつない空にポッカリと浮かぶ月は美しかった。
村人たちさえああでなければ、この温泉は絶景の温泉宿としてそれなりに繁盛もしたのだろうけれど、今の女湯の客はレジーナ一人。
湯の音と、咳き込むクマの頭だけが騒がしい温泉に一人いると、まんじりともしない時間を噛みしめるのにこれ以上の舞台はなかった。
ふと――輝く月を見上げていたレジーナの脳裏に、昼間見たあの偽物の月が思い浮かんだ。
赤梵天とかいう、あの狂いじみた大きさの凶獣――。
本当に、自分たちはアレと闘うというのだろうか。
それを考えただけで、嫌な震えが全身に走り、全身の体液が下降した気がした。
あんなもの、あんな狂いじみた大きさの獣。あんなものをどうやって仕留めるというのか。
如何にあの最終兵器が剣呑な代物だからといって、あの巨砲の標的となる位置まで、あの化け物をどうやって誘い出し、留め続けろというのか。
そりゃ百戦錬磨のマタギ衆ならある程度経験も確信もあるのだろうが、自分たちは多少切った張ったが得意なだけの冒険者で、動物の狩りには素人なのだ。
ましてやあんな、もはや巨大という言葉も当てはまらない、まるで山のような獣が相手なのである。
あんなもの、私たちが本当に相手にできる存在なのだろうか――そう考えると、湯に温められた身体が氷のように冷えた気がした。
どうしよう……やっぱり明日、オーリンとイロハをなんとか説得し、協力を断るように言ってみるべきだろうか。
悶々と色んな事を考えていたレジーナの耳に、温泉のドアが開く音が聞こえ、レジーナはハッと後ろを振り返った。
「おや、先客がいるのは珍しいな」
真剣に驚いた声で、銀髪の美少女――ユキオがレジーナを見ていた。
あ、と目を丸くすると、ユキオが意味深な半笑いを顔に浮かべた。
「その顔。温泉だけはまともでよかった、って思ってるだろ?」
ぎくっ、と返答に詰まると、ユキオは乾いた笑い声とともにレジーナの隣に来て、んーっと気持ちよさそうな声を上げながら湯に浸かった。
ほう、と熱いため息をついて空を見上げたユキオは、触れば砕けてしまいそうな細い三日月を愛おしいものを見る目つきで見つめた。
「この温泉も、里の男どもがああじゃなけりゃちゃんと繁盛するんだろうけどね――」
それも――先程レジーナが考えたことだった。
やはり同年代の少女と見えて、自分たちは思考が似ているらしい。
そう思いながらユキオの整った横顔を見つめたレジーナは、なんとなくその下に視線を落として――ぎょっとした。
ゴクリ、と、その逸物を見つめたレジーナの喉が動いた。
デカい――。
何の疑いもなく、そう思った。
このマタギ、やたら人の乳を弄んでくるセクハラマタギだとばかり思っていたけれど、真にセクハラなのはその身体の方だった。
そこそこ自分のプロポーションに自身があるレジーナのそれをも圧倒的に上回る、この堂々たる風格、佇まい、存在感。
そうしょっちゅうお目にかかれないだろうレベルのこの美人に、これまたそうしょっちゅうお目にかかれないこの逸物――これではまさに鬼に金棒ではないか。
叶うことならこっちの方が好き勝手揉みしだいてみたい、むしゃぶりついてみたいと思わせる程の逸品を無防備に目の前に放り出されて、レジーナは絶句して目を瞠った。
熱っぽい視線とともにユキオの胸元をガン見していると、ふとユキオがこちらを見た。
切れ長の目に見つめられて思わず戸惑うと、にいっという感じでユキオが笑った。
「この温泉の女湯に私ひとりじゃないのは久しぶりだよ。静かな温泉もいいけど、たまには誰かと話しながらゆっくりと浸かってみたかったんだ」
えっ、とレジーナはその言葉に驚いた。
「ひとりじゃないのが久しぶりって……この里には女の人はいないの?」
「いないわけじゃないけど、殆どがちびっこかおばあちゃん。私と同世代の女の子はいないよ」
「そ、それはどういう……」
「私以外、ほぼ全員山を降りちゃったからね」
あっけらかんと言われて、却ってこちらの方が驚いた。
ユキオは寂しそうに笑った。
「こんな何にもない山の中だし、男どもはアレだもの。花の都会に憧れるのは当たり前だよ。誰だってこんなところで青春を潰したくはないだろうさ。年頃の女の子なら当たり前だよ。私の友達も、十五でスキルを覚醒させてから、みんな山を降りた」
あらまぁ……とレジーナはこの美人の境遇を哀れに思った。
あんな骨っぽい集団に囲まれ、話が合う相手もろくにいない山暮らし。
それがなんだか途轍もなく残酷なことに思えて、レジーナは思わず声を上ずらせた。
「当たり前、って……ユキオ、あなたはそうしないの?」
「私が今更街で暮らす? 無理無理、私はこんな煤けたような村にいるのが性に合ってるさ」
明らかにそうは思っていない口調で言われて、レジーナはユキオをしげしげと見つめた。
これほどの垢抜けた美人、こんな村で鉄砲片手に山を駆け巡っているよりは、どう考えても街の中で人混みに混じって生活している方がよほど似合いに思える。
あはは……としばらく乾いた声で笑ったユキオは、急に笑いを引っ込め、視線を落とした。
「それに、私にはやることがある。絶対に赤梵天を倒すっていう目的がね」
そう言ったのと同時に、ユキオから静かな殺気が放たれ始めた。
「あいつは爺さの仇、そしてレオの父親であるバンザブロウの仇でもある。あいつが今もこの山でのうのうと生きてるってことを考えるだけで、私は腸が煮えくり返る思いだよ。あいつは私が仕留める。それまでは山を降りないと決めた」
きっぱりと言い切ったユキオの声には、ただただそうすると決めたのだという決意の響きが感じられた。
しばらく無言の間があり――まず先に、レジーナが口を開いた。
「ユキオ。それじゃあ反対に、あの赤梵天を倒すことができたら――あなたは山を降りるの?」
その質問に、えっ? とユキオがちょっと驚いたようにレジーナを見た。
そのまま、少し視線が泳いで――ああ、とユキオはなんだか冴えない声を発した。
「そりゃあ……どうだろう。今まで考えたこともなかったな」
ユキオは再びしばらく無言になって、それからフッと失笑した。
「そりゃあ私だって、できればこんな狭い村じゃないところを見てみたいよ。私はほとんどこの村と、その周辺のことしか知らない。それに狭い山の中を歩いてるとね、時々無性に嫌になることだってある。なんでこんな狭い場所で生きていかなきゃいけないんだろう、って……」
ユキオが俯くと、タオルで纏められた頭から美しい銀髪の髪がさらりと水面に落ちた。
何かを言い出すことを迷う一瞬があって、ユキオはぽつりと呟いた。
「笑うなよ。私の夢はね――海を見ることなんだ」
「海?」
意外な一言に驚いてしまうと、ユキオは苦笑いを浮かべ「見たことないんだよね、海」とレジーナを見た。
「なんだかよくわからないけど、海ってもの凄く広いんでしょ? 水が塩辛くて、生臭い臭いがして、川や湖とは違う魚が泳いでるんだよな? いい歳こいて馬鹿みたいな話だけど、行ってみたいんだ、海。何よりもね、こんな狭い山の中じゃない、一度でいいから跳ね返すものがない世界を見てみたいんだ――」
ユキオが言うと、夜風が吹き、温泉から立ち上る湯気を吹き散らした。
見たことも触れたこともない海の水を幻視するかのように、ユキオは左手にお湯を汲み、水面に落とした。細かな水音と飛沫が上がる。
「馬鹿馬鹿しくて人には言えないよ、こんなこと。ああ、初めて自分以外の人に話したな――」
ユキオはへへへ、と笑い、温泉の岩に背中を預けた。
「ホント、私って田舎者なんだなぁ。今日日そこらの子供でも言わないよ、海を見るのが夢だなんてさ。馬鹿な話だろ? いい歳こいたこの美人の夢がそんな小さいことなんて――」
「小さくない!」
レジーナは思わず湯の中で立ち上がった。
その突然の挙動に驚いたのはユキオだけではなく、レジーナ本人もだった。
あ、と声を上げても、レジーナは視線はユキオから外さなかった。
「ユキオ――私にだって夢がある。回復術士として沢山の人を癒やすって夢が。私は全然あなたを馬鹿だとも田舎者だとも思わない。立派な夢だって――そう思う」
その問いに、ユキオの目が丸くなった。
唖然としているユキオに、レジーナはなおも言った。
「私と一緒に旅をしてる、あの何言ってんのかわかんないオーリン先輩もね、アオモリの星になるって夢があったから田舎を捨てて王都に出てきたの。家族も友達もアオモリに残して、それでもいつかアオモリで立派な冒険者ギルドを開くって、そういう夢のためにそうしたのよ」
そう、初めて会話したあの王都の夜、オーリンははるか彼方の空に輝く魁星を見つめながらそう言ったのだ。
アオモリの星になれるまで、きらきら輝く星になれるまで意地を張り続けると、レジーナに約束してくれたのだ。
あの時のオーリンの言葉を、レジーナは一度も疑ったことがない。この人ならきっとそうなれる、この人はアオモリに燦然と輝く綺羅星になれる人なのだと――絶対に信じている。イロハだって、いつかヒロサキの桜を観るために遥かなるアオモリを目指しているのだ。
人の夢に大小はない。優劣もない。あってたまるものか。
誰にも笑われる由などないことではないか。
レジーナはしばらく口を閉じ、決意を固めてから――。
レジーナは湯の中にしゃがみ込み、まだ唖然としているユキオの顔を正面から見つめた。
「ユキオ、私たちで赤梵天を倒そう。私も協力する」
その一言に、ユキオの目が見開かれた。
レジーナは慎重に言葉を選んで続けた。
「そしたらあなたはマタギをやめて、この村を出る。海の見える街に行くの」
自分の言葉に熱が籠もった。
体が、温泉の熱とは違う理由で熱くなるのがわかった。
「まずは跳ね返すもののない世界を見て、それからもこの国の、この世界のいろんなものを旅して、いろんなものを見る。好き勝手色んなところをぶらついて、そして最後には――この村に帰ってくるの」
「は、はぁ――? 最後に帰ってくる設定なの?」
「帰ってくる設定なの」
ユキオの目が、わけがわからん、と言っていた。
それでもレジーナは熱っぽく続けた。
「それでね、村のみんなに自慢するの。世界の果てまで行ったけど、やっぱりこの村以上にいい場所はなかったよ、って」
えっ、とユキオが驚いた声を発した。
何故かその時だけは、今まで咳き込んでいたクマの頭も奇妙に静かだった。
「どんな人も故郷は捨てられない。山を降りたあなたの友達たちも、そのうちきっと同じ思いで帰ってくる。こんなに山だらけで狭い場所だけど、ここよりいい場所はどこにもなかったって――。そう思うために、あなたはこの村を出なきゃダメよ。ユキオ、絶対に私はあなたに海を見せてあげる。約束する」
約束、の部分に力を入れて、レジーナはユキオの切れ長の瞳を見つめた。
ぽかんとしていたユキオの表情が――徐々に、照れくさいような笑顔に変わっていった。
「ここよりいい場所はないって、そう思うために村を出る、か。なるほど――一理ある、な」
へへへ、とユキオが低く笑い、その笑いはしばらく続いた。
やがて、何かの決意が浮かんだ目で、ユキオはレジーナを見つめ返した。
「よっしゃ、約束だ。私は赤梵天を倒したら、海が見える街に行く。マタギをやめて、村を出て、山を降りる」
うん、とレジーナは大きく頷いた。
「そんで世界中を旅して、またこの村に戻ってくる――それが私たちの約束だ、いいよな?」
ユキオが右手を差し出してきた。
うん、と頷いて、レジーナとユキオは固い握手を交わし、それから肩を寄せ合って大笑いした。
思えば、この村に来てからこんなに屈託なく笑ったのは――おそらく初めてのことだった。
そしてユキオの方も、同年代の女の子と笑い合ったのは久しぶりのことだったに違いなかった。
ウォーン……と、どこかから狼の遠吠えが聞こえ、夜のミヒラの庄に尾を曳いて響き渡る。三日月の美しい、静かな夜のことだった。
『じょっぱれアオモリの星』第一巻、2022年12月28日発売です。
これから「祭り」が始まりますので皆さんお付き合いください。
「たげおもしぇ」
「続きば気になる」
「まっとまっと読まへ」
そう思らさっていただげるんだば、下方の星コ(★★★★★)がら評価お願いするでばす。
まんつよろすぐお願いするす。





