バッケ・デハッタ(フキノトウが生えた)
この穴蔵に避難して、はや三日が経過した。
全員、最早喋ることもなく無言だった。
三日目になり、徐々に風雪の方は治まりつつあるとはいえ、季節は真冬。
クリコの女神は冬がお気に入りなのか、三日間穴蔵の壁に切り取られた光景が変わることはなかった。
ありったけ身体に巻きつけた防寒着の中で、レジーナは刻一刻とくすんでいく自分の体臭が気になっていた。
この穴蔵では湯浴みどころか、オーリンに遠慮してもらって濡れ手ぬぐいで身体を拭くのがせいぜい。
既に髪の毛は脂と埃のせいでべったりと汚れて色艶を失い、身体のあちこちが痒くてたまらない。
この狭さでは立って歩くことどころか背伸びのひとつも満足に出来ず、身体がくたびれて仕方がなかった。
からん、と音がして、全員が顔を上げた。
洞窟の中で燃やしていた木切れが遂に燃え尽き、炭クズになった音だった。
ハァ、とオーリンが溜め息をついた。
「もう……燃やせるものねぇな」
それでも全員が無言だった。
おそらくオーリンの方も返答を期待していたわけではあるまい。
なんとかしなければいけない事態には違いないが、だからといって何をどう騒げば事態が好転するのか。
一歩も動かず、ただじっとしているだけの時間が、これほどまでに人間から活力を奪うものだということを――レジーナは初めて理解していた。
「どうするな、オーリン、レジーナ」
不意に――イロハが数十時間ぶりに冴えた声を発した。
その声に久方ぶりに頭を蹴飛ばされた気持ちになる。
「食糧と水はあるにはあるが、もうこれ以上暖を取る方法はない。おそらくクリコの季節が変わるのを待ってはいられないぞ」
「ああ、俺もわがってる」
オーリンは何度か頷いた。
「すかすなエロハ、んだたてどうすろっつうのや。そとはこったげの雪だね。それにまた吹雪くかもわがんねびの」
「それはわかっとるが――」
イロハが困ったように食い下がった。
「だからといってずっとこの穴蔵におるわけにもいくまい。クリコを越えるだけの食糧と水は残しておかねばジリ貧だぞ」
「そうなんだよなぁ……いやすかす……」
この三日間、三度三度やってくる空腹だけは癒やさねばならなかった。
ギリギリ切り詰めたとは言え、食糧は刻一刻と目減りしていく。
これ以上ここに居続けると、クリコ踏破そのものが難しくなってくるのは明らかだ。
しかし――この雪では満足に外を歩くことすらできない。
それにこの穴蔵を出て頂上付近でまた吹雪かれたら――それこそ一巻の終わりだ。
どうする、どうすればいい、と考えて――。
不意にレジーナの頭の中で何かが弾け、急に何もかも面倒になった。
「あああ……ああああああああああ!!」
その大声に、オーリンだけでなくイロハもびくっと身を固くする。
レジーナは頭をガリガリと掻き毟った。
その度にフケが頭から粉雪のように落ちる。
「もう嫌だ――こんな洞窟もう嫌だぁ!!」
レジーナは身体のあちこちを平手で叩きながら、うあー! と絶叫した。
もう何もかも嫌だった。この臭い身体も、頭も、立ち歩くことすらできない穴蔵も。
己を取り巻く黒と白と灰色の世界に――もうほとほと嫌気が差していた。
ひとしきり鬱屈した何かを絶叫とともに吐き出しきってから――レジーナは目を見開いた。
「この穴蔵を出ましょう! 先輩、イロハ、ワサオ!」
その言葉に、レジーナ以外がぎょっと目を剥いた。
出よう、って――そう言いつつ不安そうに視線を交差させた二人と一匹に、レジーナは大声で言い張った。
「ここにいたってどうせジリ貧なんですから! それに今は吹雪も止んでます! 出ていくなら今しかない、そうでしょう!?」
レジーナはバンバンと自分の膝を叩いて主張した。
「もう燃料も尽きたんです! 先輩がずっと炎魔法で火でも出しますか!? それこそ魔力が減ってくだけでなんにもいいことはない! 体力も気力もあるうちにこの山を越えるんです! それが最適解、ね!? 違いますか?!」
「や、ヤケ起こすなでぁ、レズーナよ……」
オーリンがほとほと困ったというようにレジーナをたしなめた。
「なんにもわがんね状態でクリコを越えるのなんて無理だびの。それごそハッコーダの二の舞だって喋ったべ。立ったまま春まで氷漬けになってしまうど」
「その時はその時ですッ!」
レジーナは拳を握りしめた。
「だいたいね、なんですかそのクリコの女神様って! 神様の気まぐれでこっちが殺されたらたまったもんじゃない! 逆に打って出ましょう! 山の神様にこの山の天候を変えさせるんです!」
はぁ? と二人が気の抜けた声を発した。
とうとう気が触れたか――というような呆れ半分の視線が痛かったが、レジーナは本気であった。
「とにかく方法はなんでもいい、山の女神様にお願いしてみましょう! 私たちを行かせてって! この山には神様がいるんでしょう!? だったら話だって通じるはずです!」
「いや、その話は単なるお伽噺であってだな――」
「お伽噺でも噂話でも根拠がなければ出てきませんよッ!」
レジーナは埃っぽい地面を叩いて熱弁を振るった。
今、レジーナの身体が生き残るために、喋ること、説得することに力を傾けているのがわかった。
「猿だって猫だってよくよく言って聞かせればわかるはずなんです! 私は【通訳】のスキル持ってるからよくわかります! 話が通じないように見えても、どんなに聞く耳を持っていないように見えても、耳がついてて口がついてる限り話せばわかるんです! みんなで女神様にお願いしましょうよ、どうか冬を終わらせてって! ねえっ!」
その熱弁に――洞窟内の気温が二、三度上がったような気がした。
ふーっ、ふーっ……という自分の呼吸音を聞いていると、不意に汗ばむような暖かさを感じた。
いけないいけない、ヒートアップしすぎたか……と思った途端、さっと洞窟の中に陽の光が差し込んだ。
「え――」
レジーナは驚いて背後を振り返った。
驚くべきことに――さっきまで曇天だった空が快晴になり、暖かな風が吹き付けた。
途端に、厚く積もっていた雪が見る間に溶け出して――洞窟の中にじょろじょろと大量の水が流れ込んできた。
「うわ! ぬ、濡れる――!?」
レジーナが慌てて腰を浮かせると、オーリンが信じられないというように洞窟の外を見た。
「春の匂い――」
「は? 今なんて?」
「春の匂い、わがんねが? 土の匂い、柳の新芽のふく匂いだ――」
オーリンが熱に浮かされたように言い、レジーナを見つめた。
呆けていたオーリンの顔が、笑顔になった。
「そうが、なるほどな……でかしたどレズーナ」
「え、な、何がですか?」
「冬は終わった、代わりに春が来たよんたぜ。冬を終わらせろってお前の説得が効いだのがもわがんねぇど」
オーリンが外へ出た。
それに釣られて、イロハとレジーナもおっかなびっくり外へ出た。
外へ出たオーリンが、ふと足元に何かを見つけ、しゃがみこんだ。
岩の隙間に茶褐色の腐葉土が溜まっているところをしみじみと見つめてから、オーリンはそっとレジーナたちに示した。
そこにあったのは、鮮烈な黄緑色の塊。
あ、とレジーナもイロハも声を上げた。
「フキノトウ、ですか――?」
オーリンが、にいっと笑った。
「これが出てくっといよいよ春なんだ。このお山は春にお色直ししたな。よし――!」
オーリンが確かな声とともに立ち上がった。
「もう待つのはやめだ! 雪崩にさえ気をつければ越えられねぇごどはねぇはずだ! クリコを越えるど!」
その言葉に、イロハの顔に生気が戻った。
「よ――よし! クリコを越えよう! またいつ冬に戻るかもわからぬ! 急げ!」
ワンワン! と、嬉しそうにワサオが尻尾を振り回した。
春の日差しに気力を取り戻した三人と一匹は、冬が溶け残る春の世界に飛び込んでいった。
◆
クリコ魔高原の季節が春になったとは言え――登山は楽ではなかった。
いまだ膝丈ぐらいにはある雪はザラメ状になっていて、壺足にはならないが、これが滑る。
ぐっ、とつま先に力を入れる度に足元がぐらつき、手をついて転んだことも一度や二度ではなかった。
やはりクリコは季節が変わったぐらいで簡単になる山ではなかった。
それでも――確実に暖かくなっている陽光と春風が、レジーナたちの気力を鼓舞した。
雪の下から顔を出している黒土の発酵したような匂いを感じるたび、芽吹こうとする木々の苦い香りを嗅ぐたび、まるで氷が溶けるかのように身体に力がみなぎってくるのがわかる。
春という季節がこれほどまでに人間を元気づけ、活力を取り戻させるものだということを、レジーナはこの北国の大自然の只中で初めて知ったのだった。
「頑張れ! あど少しで山頂だ! なんとしても今日中に越えるど!」
オーリンの檄に、おう! と応じながら、三人と一匹は手を取り合い、心をひとつにして山越えの道に挑んでいた。
勾配が五十度もありそうな急な斜面に取り付いているときだった。
「わわ――!」
短い悲鳴が聞こえ、レジーナたちは慌てて振り返った。
ザラメ状の雪に足を滑らせたイロハが滑落し、五メートルほど滑り落ちた。
慌てて雪の斜面を滑るように駆け下り、イロハを立たせてやる。
「イロハ、大丈夫!?」
「あ、ああ、大事ない。こんなところで手間取るわけにはいかんのでな――」
イロハは気丈にもそう言うが――流石に疲労の色が隠せないのは全員が同じだった。
何しろ、今の今まで三日間もほぼ動かなかったために、身体が固まっている上、寒さのせいで満足な睡眠も採れていないのだ。
ここで再び山の神様の機嫌が変われば――その不吉な想像は常にあったし、雪崩も警戒すべきで、心の休まる暇はなかった。
イロハに手を貸し、ぐっ、と歯を食いしばって斜面に取り付いたときだった。
斜面の上の方にいたオーリンが、遥か上の方に見えるクリコの頂を睨みながら、すう、と息を深く吸い込んだ。
「サーイギサイーギ! ドッコーイサイーギ!」
不意に――オーリンが朗々とした声で、不思議な唄を唄い始めた。
リアル津軽衆にはおなじみのあの歌が登場いたします。
「たげおもしぇ」
「続きば気になる」
「まっとまっと読ましぇ」
そう思らさっていただげるんだば、下方の星コ(★★★★★)がら評価お願いするでばす。
まんつよろすぐお願いするす。





