シネェ(繊維感が強くて容易には断ち切れないことを示す東と北の間の独特の表現)
狂騒が、不意に収まりつつあった。
今まで一心不乱にベニーランドのある方角を目指していた魔物たちから、急に殺気が消えたのがわかった。
ぜぇぜぇ……という自分の呼吸音をうるさく思いながら、オーリンは目を見開いて魔物たちを観察した。
いまだ断ち割れたままの海底にいた魔物たちが、まるで人間のようにきょろきょろと辺りを見回し、これは一体どういうことだというように立ち止まった。
次に、オーリンはマサムネが護る空を見上げた。
今までどれだけ攻撃を繰り返しても怯むこともなかった空の魔物たちの隊列が、急に乱れ始めた。
高度を乱し、輪を描き、中にはその場に留まってギャアギャアと不快に鳴き喚くものさえいる。
今まで高度を取っていたマサムネが、魔物たちに向かって一声吠えた。
天地を揺るがす吠え声を聞いただけで、魔物たちは明らかに怯えた。
空にいる魔物たちは一目散に頭を巡らしてマサムネから離れてゆき、やがて空の彼方に消えてゆく。
地にいる魔物たちも、マサムネの気迫に恐れをなしたかの如く、我先にと元いた陸地へと戻ってゆく。
どうやら――魔物たちを操っていた術が切れたらしい。
それを理解したオーリンは、顔中をしとどに濡らす冷や汗を血みどろの手の甲で拭ってから――笑った。
エロハよ、お前は最早臆病者などでねぇ。歴代一の大公だじゃ――。
心にねぎらいの声をかけた途端、がくんと身体が重くなり、オーリンはその場に膝をついた。
魔力はとっくに尽きて、生命活動の維持に使っている魔力までつぎ込んだ結果だった。
もはや口を開く気力まで萎えていた。
空を見上げ、少しでも多くの酸素を得ようと喘ぐように呼吸する視界を、マサムネの巨体が空を横切った。
ばさり、ばさり、という羽音とともに吹きつける風に、浮かんでいた汗が気持ちよく引いてゆく。
マサムネが、ぐい、と鎌首を曲げてオーリンを見下ろした。
種族の差はあっても、マサムネが笑っているのがわかった。
オーリンの健闘を称えるかのように、マサムネは確かに笑っていた。
はぁ、と大きく息を吐き出したオーリンも、やっとそこでマサムネに笑みを返すことが出来た。
◆
「レジーナ……レジーナっ!」
イロハは砂まみれの血まみれになって転がっているレジーナを抱え起こした。
その途端、中途半端に開いたレジーナの口から、ごぽりと音がして、大量の鮮血が滴った。
口から、胸から、明らかに致命的とわかる量の血が流れ、波打ち際で海と混ざり合った。
胸を一突きにされたのだ。
もはや手の打ちようなどないことは、イロハにだってわかっていた。
それでも、イロハはレジーナの血の気を失った顔を必死に撫でた。
刻一刻と温もりが失われていく身体に、それで少しでも温もりが戻れば――。
思えば絶望的な行為だったが、イロハにはそれ以外なすすべはなかった。
「レジーナ、死ぬでない! 返事をしてくれ!」
イロハは小さな体で精一杯レジーナを揺さぶった。
「何故無関係のお前が死なねばならん! 私が、私が悪いのだ……! そなたらを我々兄妹の因縁に付き合わせた。死ぬべきは私であってそなたではないはず、そうであろう!」
そう問うてみても、レジーナが返事を返すことはない。
ただ、奇妙に穏やかな表情を浮かべた頭が、イロハの身体の震えに合わせて揺れるだけだ。
「レジーナ……!」
イロハの両腕から、力が抜けた。
どさり、と、白い砂浜にレジーナが仰向けで横たわる。
どうして――。
イロハは神に、自分を生み出した何者かに向かって慟哭した。
何故、この心優しき娘が死なねばならぬ。
この者は臆病者の私に、お前ならできると言ってくれた。
私を庇い、命をかけて私を護ってくれた。
死ぬべきは私だった。なのに何故この娘が身代わりになるのだ――!
イロハが空を仰ぎ、喉が引き千切れるほどの絶叫を張り上げた、そのときだった。
ズズズ……という不穏な音――否、神経の表面を逆撫でされるような、不思議で不快な感覚をイロハは覚えた。
激しくしゃくりあげながらその不快感の出処を探ったとき――イロハの目が信じられないものを映し出した。
血が、白い砂浜に流れていたレジーナの鮮血が、逆流していた。
見間違いではなかった。
砂浜を汚し、海を血の色に変えていた血が、まるで映像を逆再生するかのように、ある一点を目指して戻り出した。
それだけではない。どくどくと傷口から滴っていた血の表面が急にぷくりと盛り上がり、見ている間にいくつもの瘤になる。
その瘤は重力法則に逆らうようにして、その出処――レジーナの命を断ち切った傷口に集まり出した。
イロハは一瞬、涙を忘れた。
なんだ、一体何なのだ、この光景は。
私は一体何を見ている。何を見させられているのだ?
あまりの光景にイロハがその場にへたり込んだ、その瞬間――。
肌を震わせていた不快な感覚が一層強まり、レジーナの胸の傷口から何かが飛び出してきた。
「っ――!?」
思わず、イロハはその場に尻餅をついた。
ズルルル……! という音とともにレジーナの胸から飛び出し、まるで触手の如く伸びてゆくもの――。
これは――イバラの蔦か。
イロハは生まれて初めて、生理的な嫌悪感に吐き気を覚えた。
口に手をやり、はっ、はっ――! と喘ぐ間にも、レジーナの身体から伸びた赤紫色のイバラの蔦はぐねぐねと蠢き、のたうって、見る間にレジーナの身体を包み込んでゆく。
不規則に並んだ棘はまるで生きているもののように地面をこすり、蛇が如くにレジーナの身体にまとわりついていって――遂にレジーナの身体が見えなくなった。
だがイロハが悲鳴を上げる前に、イバラの蔦が再び蠢いた。
先程の光景と同じ、まるで時間そのものが逆行するかのように、レジーナの身体を包み込んでいたイバラの蔦がレジーナの胸に吸い込まれてゆき――。
十秒ほどの後、やがて全てが幻だったかのように、すっかりレジーナの中に消えていった。
イロハの頭から、音を立てて血の気が引いた。
どくっ、どくっ……という心臓の音とともにこめかみが脈動し、気分が悪くなる。
なんだ、一体何なのだ、今のは。
イロハは今しがた自分が目撃したものが信じられなかった。
イバラが――まるで意志あるもののように脈動する蔦が、人間の胸から生えて、消えた。
あまりの光景に絶句しているイロハの目の前で――やがて、ぱちり、とレジーナの目が開いた。
「……ぉが?」
間抜けな一言とともに、レジーナが目だけで辺りを伺った。
やがて、伺っても状況が飲み込めなかったらしく――レジーナはもっくりと上体を起こした。
起こしてから、ふあぁ、とレジーナは凄まじく巨大なあくびをひとつかまし、ボリボリと頭を掻き毟った。
「ああ……んええ、ぺっぺっ……! やだ、砂噛んじゃった。気持ち悪い……!」
レジーナは大袈裟なほど顔をしかめて、何度か砂粒を吐く動作を繰り返した。
やがてとりあえず人心地がついたらしいレジーナは、そこで初めてイロハを見つめた。
「あっイロハ! あなた大丈夫!? あの優男はどこ行ったの!?」
レジーナは放心しているイロハの肩を掴んでまくし立てた。
「絶対に負けちゃダメだからね! あんなカミだの毛だのってしつこく連呼する男にロクなやつがいた試しがないんだから!」
先程まで確実に死んでいた人間とは思えない圧で、レジーナはイロハに切々と説いた。
「あなたももう少し大人になればわかるんでしょうけどね、本当に頼れる男ってのはオーリン先輩みたいな口下手だけどやることはちゃんとやる男なの、ね! いい、女のプライドをかけてあの優男を否定しなきゃダメよ! ああいうのはほっとくと次もまたなんかやらかすんだから! いっぺん立ち上がれないぐらいボコボコにするのが愛なの、わかる!?」
ねぇ! とレジーナはイロハの顔を見つめた。
それでも反応がないことを不審に思ったのか、レジーナはイロハの顔を覗き込んだ。
「イロハ……?」
とりあえず、イロハは震える右手で傍らを指差した。
えっ? と不思議そうにレジーナが見た方向に……文字通り、立ち上がれないぐらいにボコボコにされ、ズタボロの有様のアルフレッドが転がっている。
あれ? とレジーナが声を上げると、いつの間に意識を取り戻したのか、アルフレッドが首だけを起こしてレジーナを見つめていた。
その目にはいつぞや見たときのような異様な光が戻り、震える声でアルフレッドは「見つけた……」と呻いた。
「見つけた、見つけたぞ……! お、お、お前が……!」
アルフレッドの表情が一瞬、怒り、悲しみ、無表情……とそれぞれバラバラの表情を紡ぎ出し――最終的に、どこかが壊れたかのような笑みになった。
「やはり我らが神は私を見捨てなかった……! だからお前を私のすぐ側にお遣わしくださったのだ! 人間は遂に死さえも超越する、それがお前だ!」
あは、あはははは……とアルフレッドは狂人そのものの声で笑った。
それを見たレジーナが、すっ、と立ち上がり、喚き続けるアルフレッドに向かって歩き出した。
「お前、我らと一緒に来い! お前が、お前こそが我らの希望、殉教者たちの救いそのものなのだ! お前が拒否しても我々はお前のことを決して諦めんぞ! 全く、お前が今の今まで誰にも見出されずにいたとは……! この世界の人間はよくよく無能だな! そのせいで我々は……!」
レジーナが、思い切り足を振り上げた。
つま先を固定し、踵を立てて――そのままアルフレッドの後頭部に鋭く振り下ろした。
ゴツッ! という、人間の意識を断ち切る重い音がした。
ぶぇ! と、アルフレッドが砂浜に顔を押し付け、再び沈黙する。
それを見下ろした――否、見下してから、レジーナは顔を引きつらせて吐き捨てた。
「カミカミうるさいのよ。いい歳ブッこいて……」
吐き捨ててから、レジーナは心底軽蔑したというように短く付け足した。
「ヤギじゃないんだから」
「たげおもしぇ」
「続きば気になる」
「レジーナ・マイルズ、復活」
そう思らさっていただげるんだば、下方の星コ(★★★★★)がら評価お願いするでばす。
まんつよろすぐお願いするす。





