ナシテ・イマデネバネノヤ(何故今でなければならない)
指先から、赤い血が滴っていた。
自身も相当久しぶりに使った【八蝕】一式は、覚えていたよりも魔力を消費するものだった。
両腕に魔力を集中させ、不可視の刃として放つという技の特性上、その連撃は両腕に相当の負担を強いることになる。
既に十本ある指の先は全てが裂け、振り抜くたびにじんじんとした痛みが脳天に突き上げるが、構ってなどいられなかった。
うああ! という、半ばやけっぱちの声とともに両腕を振り抜くと、空を飛んでいた魔物が四体ほど斬り裂かれ、海に堕ちた。
「くそっ……! まだだがやエロハ……!」
オーリンは島の反対側でアルフレッドと激闘を繰り広げているだろうイロハを思った。
テイム系のスキルは術者の意識が消失すれば効果は切れるはずで、自分の仕事は、イロハがアルフレッドを討ち取るまでこの魔物どもを足止めすることだった。
だが――いかんせん数が多すぎる。これではあと十分と持たずに魔力量が底を尽き、魔物どもがベニーランドを、ズンダー領を、陸空から蹂躙することになる。
「畜生……この数でば、もう十分ど抑えられねぇど……! どうせっつうのや……!」
絶体絶命、万事休す――不吉な妄想が頭を埋め尽くし、オーリンが奥歯を噛み締めた、その時だった。
グオオ……という、聞き覚えのある咆哮が空を震わせ、魔物たちがほんの一瞬、動きを止めた。
はっ、とオーリンは空を仰いだ。
この声、この羽音は……! オーリンが背後の空を振り返った先に――それはいた。
ばさり、と、巨大な翼をはためかせ、高高度から真っ逆さまに降りてくるそれ――。
その巨大な影が一瞬、太陽を横切ったと思った刹那――猛烈な火炎が空を焼き尽くした。
それはまるで、天の怒りであった。
凄まじい輻射熱を放つ業火が青々とした空を橙色に染め上げ、空を覆い尽くした魔物たちを容赦なく屠ってゆく。
魔物たちが一瞬で炭の塊になり、ぼたぼたとハエのように海面に向かって落ちていく中を掻い潜りながら、「それ」はオーリンの頭上にやってきた。
「マサムネ――!」
オーリンは思わず、久方ぶりに出会った飛竜の名前を叫んだ。
巨体に制動をかけて虚空に留まり、潰れていない方の左目でオーリンの姿を見た飛竜――マサムネが、ぶるる……と鼻を鳴らした。
「どうやら間に合ったようだな、若き魔導士殿。そなたのベニーランドへの惜しみない献身、皆に代わって礼を言わせてもらうぞ」
例の如く、まるで古株の騎士のような口調でマサムネが言った。
マサムネは鎌首を持ち上げ、襲い来る魔物たちを睨み据えた。
「これはこれは……なんと騒がしきことか。吼えよ、翔けよ、人間どもに贖いの流血を……皆口々にそう喚いておる」
「ああ、みんなお前ど同じだ。あの腐れモンに操られでんだよ」
オーリンの言葉に、マサムネが頷いた。
「よかろう。今こそ我が盟友……そこな島に眠りたる初代ズンダー王との盟約を果たす秋ぞ。友よ、喜べ。そなたが創り給うた御代は、きっとこの若き友とともに護り抜くぞ――!」
マサムネが大空に舞い上がった。
その姿に勇気づけられオーリンは、襲い来る魔物たちの群れに再び向き直った。
「まだまだ、俺だって――!」
負げでらんねぇ。
再びそう心に決めて、オーリンは魔物の群れに向かって両腕を振り抜いた。
◆
「レジーナ……!」
耳をつんざく絶叫が砂浜に響き渡った。
くっ、と顔を歪めたアルフレッドは、イロハに覆いかぶさったままの娘の背中から鋒を引き抜いた。
途端に――一突きにした胸から派手に血が吹き出し、下敷きになったイロハの顔にどぼどぼと降り注いだ。
「愚かな……! 黙って見ておれば死なずに済んだものを――!」
苛立ちとともにそう吐き捨て、アルフレッドはその肩を掴み、無造作に傍らに放り投げた。
もはや事切れているらしい娘の身体がモノ同然に転がり――砂浜に紅い帯を引いた。
ギャンギャンと吠えつく犬の声が不快だった。
強かに木刀で叩かれたせいか、それとも許容量を越えた憤りと怒りのせいか、さっきから目眩が止まらない。
娘を放り捨てた途端――平衡感覚が崩れ、強い目眩を覚えたアルフレッドは、うう、と呻いて左手で額の生え際を掻き毟った。
「くそ……! くそおっ……!」
後は放心しているイロハに剣を突き立てるだけだというのに――激しく視界がぐらついていた。
なんとか両足に力を込めて踏ん張ろうとするが、その度に重心が崩れ、頭がまるで振り子のように揺れてしまう。
直立しようとして果たせず、思わず砂浜に剣を突き立て、それに縋って荒い息をついたときだった。
グオオオ……という咆哮、そして次に空を染め上げた炎に、アルフレッドはぎょっと空を仰いだ。
その先にいたのは――一体のドラゴン。
ここから見ても相当に巨大なその影は――間違いない、ベニーランドを守護してきた聖竜、マサムネの姿だった。
何故、どうして。
アルフレッドは混乱した。
マサムネは一ヶ月も前、自分が【凶獣遣い】のスキルで支配下に置いていたはずだ。
そのはずのマサムネが、どうしてこのマツシマの空にいる?
何故、自分が操っている魔物たちに襲いかかっている?
何もかもわけがわからなくなったアルフレッドの目に、マサムネの吐く業火が空を焼き尽くし、魔物たちが圧倒される光景が飛び込んできて――あ、あ……とアルフレッドは喘いだ。
「や、やめろ……! 邪魔を……するな!」
アルフレッドは血に汚れた左手を大空に伸ばした。
「おのれマサムネ……! そしてここにいるものたちも……! 何故だ、何故私の……私の邪魔をするッ!」
アルフレッドは空の彼方を飛び回るマサムネに向かって絶叫した。
「私は正す! 世界を正し、裁いてみせる! 間違っているのは私ではない、世界だ! 何故護ろうとするのだ! そうするなら、それだけの力があるなら、何故、何故私を庇い護ってはくれなんだのだ――!」
アルフレッドは腹の底から慟哭した。
「喉が枯れるほど叫んだではないか! 助けてくれ、私を救ってくれと! いつもいつも願っていた、待っていたのに――! 何故今になって私の邪魔をするのだ! もう遅いぞ、この愚か者どもめ! やめろ、やめてくれ! 私の夢を、私の願いを壊さないでくれ――!」
そうだ、何故今更なのだ。
何故、苦しかったあのとき、誰も自分を護ってはくれなかったのだ。
誰一人、微笑みかけることさえしてくれなかったというのに。
自分の周りのもの全てが、なにひとつ与えてくれなかったというのに。
だから世界を必要な形に修正してやろうと決意したのに。
何故に今でなければならない?
何故、過去のそのときであってはいけなかったのだ。
自分が歪みきった後でそれを否定しようとしてくるなんて――酷すぎるではないか。
たった一度、たった一度でもいいから、何かを与えてくれたら、自分はこうはならなかったのに。
くっ、とアルフレッドは歯を食いしばり、背後を振り返った。
呆然と座り込んでいるイロハは、焦点の合わない目で虚空を見つめたまま、微動だにしない。
まだ終わっていない。
アルフレッドはイロハを見てそう考えた。
自分の世界にはまだこいつがいる――眩しく輝く星が。
燦々と周囲から愛情を受けて育ち、ひたむきに努力しそれに応えようとする眩しい星が。
輝くものが消えれば全ては闇――影である自分もそこに同化できる。
惨めさなど、もう感じることはない。
アルフレッドは砂浜に突き立てていた剣を引き抜いた。
「まだだ……私にはやることがある」
そう、やることが。
人間を裁く、自分の世界を裁く、そして正しき神の意志を貫徹する。
こいつさえ、こいつさえ消えれば――ベニーランドの未来は消える。
腕の力を総動員して、剣を持ち上げた。
後はこれを振り下ろせば全てが終わる。
危うく揺れる鋒を死ぬ気で支えながら、アルフレッドはイロハを見下ろした。
「これで……最後だ」
アルフレッドは、いくつかの意味を含めてそう言った。
そのまま、イロハの脳天めがけて剣を――。
視界を――。
眩しく輝く綺羅星のような黄色が染め上げたのは、その時だった。
「な――!?」
一瞬、挙動が遅れた。
飛び退ろうとして果たせず、剣を握る左手首をがっちりと掴まれたことがわかるのに、更に数秒かかった。
小さな手が、自分の左手首を抑え、力任せに締め上げている。
ギリギリ……と、常軌を逸した力が手首にかかったと思った途端、ボキン! という、身の毛もよだつ衝撃が全身を駆け抜けた。
「ぎゃあああああああっ!」
衝撃は、一瞬の後には激痛に変わった。
手首を折られた、否、砕かれた痛みに視界がちかちかと明滅した途端、激しく明滅する視界に――ゆらり、と小さな身体が立ち上がったのが見えた。
「ひ……!」
アルフレッドは、心の底から恐怖の悲鳴を上げた。
突如、まるで猛獣のそれに豹変したイロハの目が――ぎろり、とアルフレッドを見る。
それだけで、まるで魂さえ滅却されてしまいそうな威圧感が全身を突き通った。
「アルフレッド……」
じり、とイロハが一歩踏み出した。
それだけで、アルフレッドは威圧感に絶えきれず、数歩も後退した。
「アルフレッド……!」
再び、血塗れの悪鬼羅刹がアルフレッドを睨めつけた。
はっ、はっ……という自分の呼吸が、耳鳴りが止まらない耳にうるさい。
マツシマの高く青い空に――太陽をも圧する光が輝いたのは、そのときだった。
「たげおもしぇ」
「続きば気になる」
「まっとまっと読ましぇ」
そう思らさっていただげるんだば、下方の星コ(★★★★★)がら評価お願いするでばす。
まんつよろすぐお願いするす。





